1.  告白[1]

〔1884年〕

私はそのことを紙片に書いて父に手渡した。そこでは,自分が犯した罪を告白しただけでなく,罰を加えてくれるように請い,また父がこのことで自身を責めないように願って締めくくっていた。私は,二度と人の物を盗まないことも誓っていた[2]

自叙伝 第1部 第8章

 

2.  ラジコットのアルフレッド高校でのスピ-チ[3]

1888年7月4日

僕は,君たちのうちから,僕に続いてイギリスに渡り,帰国してから,インドの大改革に真剣に取り組む仲間が出てくることを願っています。

[グジュラート語からの翻訳]

カチアワールタイムズ,1888年12月7日

3.  ラクシュミダス・ガンジーへの手紙

ロンドンにて

1888年11月9日金曜日

尊敬する兄弟へ

ここ2,3週間,貴兄からなんのたよりもないことを残念に思います。多分,私からの便りが来なかったからなのでしょう。でもそれは,船がロンドンにつく前に手紙を投函することは不可能だったからなのです。私からの便りがないからという理由で手紙を書いてくれなかったのなら,まったく驚きです。私は家から遠く離れた土地にいるのですから,手紙で会うしか方法がないのですよ。もし,手紙が届かなかったら,私がどれだけ心配するか。どうか,まちがいなく毎週1枚葉書をください。住所を書き残して来なかったのだったら何も心配はしません。貴兄は2回便りをくれただけで,その後は何の便りもなくなったので悲しく思っているのです。この前の火曜日にインナーテンプルの入学手続きをしました。詳しくは,来週貴兄からの手紙を読んでから書くことにします。当地の寒さは,ここのところ厳しいものですが,そんなに長続きするものではなさそうです。寒くても,肉やお酒の力を借りずにやっています。それで,心は喜びと感謝で満たされています。健康状態も良好です。お母さんとお義姉さんによろしく伝えてください。

マハトマ第1巻;グジュラート語のコピーも同内容

 

4.  ロンドン日記[4]

ロンドンにて

1888年11月12日

私はなぜロンドンまで来る気になったのだろうか。すべては4月が終わるころに始まった。ロンドンに来て勉強するという目的を具体的に持つより前に,ロンドンがどういう所かこの目で見てみたいという,人には言えない好奇心が先にあった。バブナガールの大学に通っていた時,ジャイシャンカール・ブッフと話したことがあった。その時彼は私に,ジュナガー州にロンドンに行く奨学金を申し込むよう助言してくれた。当時,私はソラート州に住んでいた。その日,彼にどんな返事をしたのか,はっきりとは覚えていない。多分,奨学金なんかもらえないと感じていたように思う。でも,その日以来,かの地に行ってみたいと思うようになった。そして,その目的にたどり着く方法を探し始めた。

1888年4月13日,私は休暇をラジコットで過ごすためにバブナガールを後にした。15日間の休暇を楽しんだ後,私は兄と一緒にパトワリ氏に会いに出かけた。その帰り道,兄は私に,「マブジ・ジョシに会ってみたらどうだろう。」と言った。それで,出かけた。マブジ・ジョシは私に,いつものように,どうしてるかと聞いた。それから,バブナガールでの私の勉強についていくつかの質問をした。私は,一年目は試験に通りそうにないということを率直に話した。そして,コースはとても難しいことが分かった,と付け加えた。これを聞いて彼は,私の兄に弁護士資格を取らせるためにできるだけ早くロンドンに行かせるようにと助言した。彼は,かかる費用はたったの5000ルピーだと言った。「この子にはウラッドダルを持たせればいい。それを自分で料理して食べる分には,宗教上のことでとやかく言われることはないだろう。ただ,留学のことは誰にも言わないように。奨学金を申し込まないといかんな。ジュナガッドとポールバンダル州に申し込むように。わしの息子のケバルラム弁護士にも会うといい。もしどこからも金銭的な援助が得られず,君もお金がないのなら,家具を処分してお金を作ることだ。どうにかしてモハンダスをロンドンに留学させるんだ。それしかお前の病気の父親の名誉を保つ方法はあるまい。」私の家族はみんなマブジ・ジョシの言うことには絶大な信頼を寄せていた。生まれつきとても信じやすい性格の兄は,私をロンドンに留学させると彼に約束した。今度は私が頑張る番だった。

私の留学のことは秘密にしておくと約束したその日のうちに,兄はクシャルバイにしゃべってしまった。クシャルバイは,私が宗教の戒律を守れるのであれば,留学には反対しないといった。メジバイにも同じ日に話が伝わった。彼は賛成してくれて,5000ルピーの援助を申し出てくれた。私は何となく彼の言葉を信じた。しかし,愛する母に留学の計画が打ち明けられた時,母は私がメジバイの申し出を易々と信じていることをたしなめ,留学ができることになってもメジバイから援助はもらえないと思っておきなさいと言った。母は留学そのものが実現しないと思っていた。

その日,私はケバルラムバイの所へ行くことになっていた。彼に会い,話をしたが,いい話ではなかった。彼は留学の計画には大賛成だったが,「ロンドンでは最低10000ルピーは必要だろうよ。」と言った。私は彼の言に打ちのめされた。それから彼は追い打ちをかけた。「君が宗教を信じているとしても,その宗教の戒律は全部脇に置いておかなければならないだろう。肉を食べたり,酒を飲んだりしなくちゃいけない。それなしでは生きていけないだろう。お金を使えば使っただけ賢くなれるんだ。これはとっても大切なことだから,君に率直に話しておくんだ。悪く思わないでくれよ。ま,正直君はまだ若い。ロンドンには誘惑があふれている。君がその誘惑に囚われても不思議はない。」彼の話を聞いて私はいくらか意気阻喪した。しかし私は,いったん決心したことを容易く放棄するような人間ではない。ケバルラムバイは,自説を説明するためにグラム・モハメッド・ムンシ氏の例を挙げた。私はケバルラムバイに,何かの方法で,奨学金を得る手伝いをしてもらえないか尋ねた。彼の答はノーだった。それ以外のことなら何でも喜んでしてあげようと言ってくれた。私は,一部始終を兄に報告した。

それから私は,母からロンドン留学の許可をもらう仕事を任せられた。その仕事は私にとってそれほど難しいことではないように思えた。一日か二日後,私と兄は,もう一度ケバルラム氏に会いに行った。大変忙しそうだったが,彼は会ってくれた。そして,一日か二日前とほとんど同じ内容の話をした。彼は兄に,私をポールバンダルに行かせるよう助言した。兄は承諾し,私たちは家に戻った。私は母に,その話を冗談めかして伝えた。しかし,冗談はすぐに現実になった。ポールバンダルに出発する日が決まった。

二度か三度出発の準備をしたが,その都度問題が起きて行けなかった。一度は,ザバルチャンドと行こうとしたが,出発の1時間前に大変なことが持ち上がった。私は友人の友人シェイク・メタブと喧嘩が絶えなかった。出発の日,私は彼とのけんかのことで頭の中がいっぱいだった。その夜,彼の家でパーティーがあったが,私はあまり楽しめなかった。夜の10時半ころにパーティーは終わり,私たちはメジバイとラミに会いに行った。その時,私の頭はロンドンへの思いとシェイク・メタブへの思いが交錯しわけのわからない混乱状態にあった。ボーとして歩いたため無意識のうちに馬車に接触してしまった。怪我をしたのに誰の助けも受けず歩き続けた。相当ふらふらしていたと思う。メジバイの家にたどり着いたところで,石に躓きまた怪我をした。そして意識を失った。その後何が起きたのかは知らない。ただ,友人たちから,二,三歩歩いから地面にべたっと倒れ,5分間ほど意識がなかったと聞かされた。彼らは私が死んだと思ったという。幸運にも私が倒れた場所はとても柔らかだった。私は意識を取り戻し,友人たちは皆大喜びしてくれた。使いが出され,母が駆けつけた。私は大丈夫だと言い張ったが,母が私の様子を見てとても心配したので,出発を遅らせた。皆は私が行くのを止めさせよとしていたが,腹の座った愛する母が,私の出発を許してくれたことを後で知った。ただ,母は周囲の悪口を恐れていた。そんなこんなの困難があって,数日後やっと,私はラジコットを後にしてポールバンダルに向かうことを許された。道中でもいくつかの困難に出会った。

とうとう私はポールバンダルに着いた。皆喜んでくれた。ラルバイとカルサンダスがカディ橋まで来て,私を家に連れて行ってくれた。ポールバンダルでしなければならなかったことは,第一に叔父の同意を得ること,第二にレリー氏に奨学金の申請をすること,第三に,奨学金を断られたときには,パルマナンドバイに資金援助を頼むことだった。私はまず叔父に会って,ロンドン留学に賛成してくれるかと持ちかけた。予想していたとおり,叔父は私に,ロンドン留学のどこがいいのか詳しい説明をするよう,当然の質問をした。私は一生懸命に答えた。次に叔父は,「今どきの若い者は皆ロンドンに行きたがる。だが,わし自身,それは好きじゃない。しかしじゃ,ま,そのことはゆっくり考えることにしよう。」この答えに,私はがっかりしなかった。様々な時に見せる叔父の様子から,彼が内心では私の計画を気に入っていることが分かったからである。

運悪く,レリー氏はポールバンダルにはいなかった。不運は一人ではやってこないというのは本当だった。レリー氏は地方から戻ってくると,次の仕事ですぐ又出かけてしまった。叔父は,次の日曜日まで待っているように助言してくれた。もしそれまでに戻ってこないなら,出かけている先まで送り届けてやるとも言ってくれた。嬉しいことに,レリー氏は日曜日に戻ってきた。さっそく月曜日に会ってもらう約束が取れ,面接が実現した。それは私の人生で初めて,イギリス人の面接を受けた経験だった。以前ならイギリス人の面接を受けることなど決してしなかっただろう。でも,ロンドン留学への思いが私を勇敢にしてくれた。私たちはグジュラート語で短い会話をしただけだった。彼は急いでいた。会ったのも,彼がちょうどバンガローの2階の階段を上っているときだった。「ポールバンダル州は大変貧しいので,君に奨学金を出すことはできない。しかし,君がまずインドで卒業して,それからもう一度面接を受けに来たら,その時に奨学金を出せるかどうか検討しよう。」それが彼の答だった。私はがっかりした。そんな答えをもらうなんて予想もしていなかった。

こうなったらパルマナンドバイに頼んで5000ルピーを出してもらうしかなかった。彼は,私の叔父がロンドン行を承知したなら喜んでお金を出してあげようと言っていた。こちらの仕事のほうが難しそうだったが,叔父を説得するしかないと決心を固めた。叔父に会ったが,何かで忙しそうにしていた。「叔父さん,ロンドンに留学することをどう思っているか,本当の気持ちを教えてください。私がポールバンダルに来た一番の目的は,あなたの同意をいただくことなのです。」そう切り出すと,叔父はこう答えた。「わしは賛成できないな。わしが巡礼の旅に出かけようとしているのを知らないのか?そういう人間が,誰であれロンドンに行くのに賛成するなんてことは恥ずべきことだと思わないか。しかしな,君の母さんや兄さんが行かせたいというなら,それに反対するつもりは全くないがね。」そこで私は言った。「でも,叔父さんはご存じないかもしれないけれど,ロンドン行に反対されると,パルマナンドバイはお金を出してくれないんですよ。」私が言い終わると同時に,叔父は怒った口調で言った。「ほんとにそうかな?お前,あいつがそう言った理由を知らないのだろう。わしがロンドン行に賛成しっこないというのを知っているから,そんな言い方をしたんじゃ。ほんとのところは,あいつは初めからお金を出す気なんかなかった。あいつが出すというのを,わしが止めることはない。」叔父との会話はここまでだった。私は喜び勇んでパルマナンドバイのところに跳んで行き,叔父との会話の一部始終を彼に伝えた。聞き終わると彼もとても腹を立て,すぐに5000ルピーの援助を約束してくれた。その約束を聞いて天にも昇るほど嬉しかったが,もっと嬉しかったのは彼が自分の息子にかけて宣誓してくれたことだった。この日以降,私はロンドン留学が実現することを確信するようになった。それから数日ポールバンダルに滞在したが,そこにいればいるほどパルマナンドバイの約束の確かさを感じることができた。

私が不在中にラジコットで起きていたことに話を移そう。友人のシェク・メタブは大変悪知恵の働く人物というしかない。彼は,メジバイが私に5000ルピーの援助の約束をしたことを知っていた。そこで,メタブは5000ルピーが必要になった云々と自分で書いた私のサイン入りの手紙を作って,それをメジバイに見せ,約束のことを思い出させた。メジバイは手紙を本物だと思い込んだ。彼は大変見栄っ張りだったので,5000ルピーの援助をするということを固く約束してしまった。ラジコットに着くまで,私はこのことを知らされていなかった。

話をポールバンダルに戻そう。ラジコットに出発する日がやっと決まり,私は家族の一人一人に別れを告げ,兄のカールサンダスと,メジのけちんぼの権化のような父親と一緒に旅立った。ラジコットに行く前に,私はバッブナガールに行って,家具を売り払い,借家を解約した。それらのことをたった一日で終え,近所の皆にさよならを告げた。借家の親切な女主人も含め,皆涙で送ってくれた。私はあの人たちとアノプラムの親切を一生忘れてはいけないと思う。これらのことを済ませ,やっとラジコットに着いた。

私は,3年間インドを離れることになるので,出発前にワトソン大佐[5]に会わなければならなかった。大佐は,1988年6月19日にラジコットに赴任する予定だった。5月の初めにはラジコットに着いていた私にとって,それまでの期間は本当に長かった。でも,どうすることもできなかった。兄はワトソン大佐に大いに期待を持っていた。待っていた日々は本当につらかった。夜はよく眠れず夢にも悩まされた。私にロンドンへ行かないようにと忠告する人もいたし,行けと助言してくれる人もいた。私の母も時々は,行かないように口にしたし,不思議なことに兄も気が変わったことが一度や二度ではなかった。それで私は不安になっていた。ただ,誰もが,何かを始める前にそれを投げ出すべきでないということを知っていたので,結局それ以上は言わなかった。待っている間に,兄は私に,援助を約束してくれたメジバイの気持ちを確かめておくように言った。結果は,やはりがっかりするものだった。それ以来,彼はいつも私の敵に回るようになった。相手かまわず私のことを悪く言いまわった。でも私は,そんな彼の悪口を全く気にしないでやり過ごした。愛する母は,そのことで彼のことにひどく腹を立て,時々気分が悪くなった。しかし,そんな母を慰めることは私には簡単だった。私のために涙を流している大好きな,大好きな母を何とかして心の底から笑わせるのに成功したときは,本当にうれしい気持ちになった。ようやくワトソン大佐が着任し,会うことができた。彼は,「考えておこう。」と言ったが,彼からはその後何の援助もなかった。私がやっとの思いで手に入れた紹介状を持参したのを一瞥して,大佐は,これは10万ルピーの値打ちがあるといっていた。全くの笑い種だった。

出発の日が決まった。最初は8月4日だった。ところがとんでもないことが起きた。私のイギリス留学のことが新聞に出てしまったのだ。兄は,私の留学についていつも誰かに尋ねられていた。とうとう,兄までが私に出発をあきらめるよう言い出した。私は挫けなかった。すると,兄は州知事のH.H.に会って,私への金銭的援助を頼んでくれた。しかし,知事から援助は受けられなかった。その後,州知事とワトソン大佐に会見することになった。ワトソン大佐は1通の紹介状を書いてくれ,知事は1枚の写真をくれた。この会見の時,私は思い切りおべっかを使わざるを得ず,それがとても腹立たしかったことを書き留めておく。最も信頼し,愛する兄が作ってくれた機会でなかったなら,決してそんな真似はしなかっただろう。そんなこんなで,ついに8月10日になり,私は,兄,ショエイク・メタブ,ナツバイ,クシャルバイと一緒に出発した。

ラジコットを出発し,ボンベイに向かった。それは金曜日の夜だった。学校の友人たちが送別の言葉を贈ってくれた。それに謝辞を述べるために立ち上がった時,頭がくらくらした[6]。話すべきことの半分ほどのところで,震えだした。インドに帰国した時にはもう二度と同じ目にあいたくはない。先に進む前に書いておかなければならないことがある。その夜は,大勢の人が別れの言葉を述べるために来てくれた。ケバルラム,チャガンラル(パトワリ),ヴィラジャル,ハリシャンカル,アモラク,マネチャンド,ラティブ,ポパット,バンジ,キムジ,ラム時,ダモダル,メヒジ,ラムジ・カリダス,ナランジ,ランチョダス,マニラルといった方々がその中にいた。ジャタシャンカルとヴィシュヴァナトと他に何人かも来てくれていたかもしれない。最初に停まった駅はゴンダルだった。その駅で,バウ博士に会って,カプツルバイが汽車に乗り込み一緒に行くことになった。ナツバイはジェットプルまで同行した。ドラに着くとウスマンバイが会いに来てくれて,ワドワンまで一緒に行った。ドラでは,ナランダス,プランシャンカル,ナルベラム,アナンドライ,ヴィラジラルといった方々が見送りに来てくれた。

ボンベイを出港するのは21日の予定だった。しかし,ボンベイで待っていた困難は信じられないほどであった。私と同じカーストの仲間たちが,私を出発させまいと押し寄せた。ほとんど全部が私の留学に反対だった。とうとう兄のクシャルバイや,パトワリまでが,私に出発をあきらめるように説得した。私は彼らの言葉に耳を貸そうとはしなかった。ちょうどうまい具合に,それから何日も海が荒れ,船が出港できなくなった。その間に兄も他の人たちも,私の周りからいなくなった。1888年9月4日,私は突然ボンベイを出航することになった。この時は,ジャグモハンダス氏,ダモダルダス氏,ベチャルダス氏に大変お世話になった。シャマルジにももちろん深く感謝しているし,ランチョドラル[7]にはどれだけお世話になったか知れない。世話になったとか,それ以上のことをしていただいた。ジョグモハンダス氏,マンシャンカル,ベチャルダス,ナラヤンダス・パトワリ,ドワルカルダス,ポパルトラル,カシダス,ランチョドラル,モディ,タコル,ラビ・シャンカル,フェロデシャ,ラタンシャ,シャマルジ,その他数人が汽船「クライデ」まで見送りに来てくれた。パトワリとシャマルジは餞別に5ルピーずつ渡してくれた。モディは2ルピー,カシダスは1ルピー,ナランダスは2ルピー,他にも餞別をくれた人がいたが思い出せない。マンシャンカル氏は私に銀のネックレスをくれた。そうしたことが終わると,3年間の別離の挨拶をして帰って行った。この文章を終える前にぜひ書き記しておきたいことは,もし私以外の誰かが同じ立場にいたとしたら,その人物は決してイギリスを見ることはなかっただろうということだ。私が遭遇した困難は,イギリスを実際以上に素晴らしい土地に感じさせた。

 

 

[1] ガンジーは,15歳の時,兄の借金を返すために,兄の腕輪からごく少量の金を黙って削り取ったことがあった。そのことでガンジーはひどく悩み,とうとう父親に打ち明けることを決意した。この告白の紙片を読んで父親が何も言わずに涙を流すのを見て,彼は父が自分を許してくれたことを悟った。このできごとは,彼の心にいつまでも消えない記憶として残った。それは,アヒンサの力の実物教育だったと,彼は語っている。

この紙片の実物は残っていない。自叙伝でガンジー自身が語っているところによって,再現した。

[2] 「初期のマハトマガンジー」212頁によれば,そこに書かれていた文章の一節は,「だから,お父さん,あなたの前にいるあなたの息子は,今やどこにでもいる泥棒と変わりがないのです。」だったという。

[3] ガンジーは,弁護士資格を取るためにイギリスに留学するというので,ラジコットのアルフレッド高校で壮行会をしてもらった。自叙伝の第1部第11節で,この時のことを次のように書いている。「私は短い感謝の言葉をメモに書いて用意していた。それなのに,どもってしまってほとんど何も言えなかった。感謝のメモを読もうと立ち上がったとたんに,頭がくるくる回転し,全身が硬直してしまったのだ。」

[4] 甥であり,共働者でもあったシャガンラル・ガンジーが1909年に初めてロンドンに向かおうという時,ガンジーは彼に自分の「ロンドン日記」をプレゼントした。日記は約120頁の量だった。シャガンラル・ガンジーは,1920年になってその日記のオリジナルをマハデブ・デサイに託した。実は,そうする前に,シャガンラルは自分のノートに約20頁を書き写していた。書き写さなかった100頁は,何かについて書かれたものではなく,ガンジーが1888年から1891年にロンドンに滞在していた時の出来事メモのようなものだったという。日記のオリジナルは行方不明になっているため,シャガンラルの書き写したものをできるだけ忠実に掲載した。これを英語で書いた時,ガンジーは19歳だった。

[5] カチャワールの行政官。ラジコットに事務所があった。

[6] 1888年4月7日「アルフレッドハイスクールでの演説」参照

[7] ランチョドラル・パトワリは,文通を通じてガンジーときわめて親しくしていた人物である。パトワリの父親は,ガンジーのイギリス渡航費を援助した。