ガンジー全集

 第一巻

 

(1884年~1896年6月)

 

 

インド政府

情報及び放送省

出版局

 

 

            第一版第一刷:1958年1月26日(インド国定暦1879年11月)

            第一版第二刷:1958年8月(インド国定暦1880年5月)

            第二版:1969年1月(インド国定暦1890年11月)

            第三版:1979年2月(インド国定暦1900年11月)

            再版:1985年5月(インド国定暦1907年2月)

 

 

© アーメダバード・ナバジバン財団,1969年

 

 

定価:20ルピー

 

 

著作権者アーメダバード・ナバジバン財団の好意による

 

 

発行:ニューデリー110001インド政府出版局長

印刷:ニューデリー110055スカイラーク出版

 

 

オマージュ

 

マハト・マガンジーは多くの言葉を残したが,人生哲学や信仰・思想の体系を発展させるためではなかった。そんな好みも,時間もなかった。ただ,真実とアヒンサの力を固く信じ,直面したさまざまな問題を解決するにあたって,それを具体的に適用し,実践した。そのこと自体が彼の教えであり,哲学であったといえよう。

政治,社会,宗教,農業,労働,工業,その他あらゆる分野の問題で,ガンジーが取り組まなかったものを見つけることは難しい。基本であり,根本であると信じていた真実とアヒンサの原則を用いて,彼はこれらの問題と取り組んだ。何を食べ,どういう服装をし,どんな職業に就くかといった個人的な生活の微細なことから始まって,大きな社会問題に至るまで,今日のインドの生活のあらゆる分野で,彼が自分流のやり方で影響を与えなかったもの,形作らなかったものはほとんどないと言ってよい。それは,何世紀にもわたって変えてはならないもの,神聖なものとされてきたカースト制度や不可触賤民といった問題にまで及んでいる。

ガンジーのものの見方は目をみはるばかりに新鮮で,伝統や根強い習慣に囚われてはいなかった。同じことは,彼の大小の問題への取り組みについてもいえる。その手法は,物の見方に劣らず斬新で,一見しただけでは結果が読めなかったが,最後には成功を収めた。教条主義とは無縁であることは,彼の本性そのものであった。新しい実験をしては,そこで得た体験からいつも何かを学ぶ広い心を持っていた。同じ理由から,うわべだけの首尾一貫ということにはこだわらなかった。事実,彼に反対する者はもちろん,ときには同調する者でさえ,いくつかのガンジーの行動には前後矛盾するところがあることを見て取った。彼は自分の信じるところに忠実で,かつ道義的勇気に富んでいた。いったん自分の過去の行動がまちがっていたと確信すると,それを正すことを躊躇しなかったばかりでなく,自分の誤りを公に認めることも厭わなかった。そして,しばしば,自分の決定や行動を客観的で公平な批判にさらした。ガンジーの行動の多くが,彼の崇拝者を当惑させたり,批判者を混乱させたりしたのも,それほど驚くことではない。

彼のような人物を本当に理解しようとするには,その説いたこと,したことのできるだけ多くをつぶさに検討することが必要である。彼の一生を荒っぽくスケッチしたり,部分的に取り出して研究したりしても,この偉大な人物の実像を正しく読者に伝えることはできない。そのことがまさに,彼が書き残したものをかくも壮大なスケールで収集することになった理由である。この全集は50巻を超えるだろうと聞いている。マハトマ・ガンジーが後世に遺したものは,それほどに大きいのである。

インド政府情報出版局は,この全集の出版に踏み切ることによって,マハトマ・ガンジーの教え,信念,哲学の研究に不可欠な基礎を提供することになる。ガンジー自身がしようとはしなかったことを,研究者と思想家たちがなさねばならない。利用可能となった資料を使って,ガンジーの人生哲学,教え,理想と計画,そして人生で生起する様々な問題についての彼の考えを,筋の通った哲学的なやり方で,かつ上手に分類した,たとえば論文の形にまとめ,分かりやすく提示することが可能となるだろう。性格上,ガンジーは,事柄の大小を問わず,あるいはまた世界的重要性のある問題か個人的な限られた問題かを問わず,どんなことにも心を開いていた。人生のほとんどの時間,大きな政治的課題と格闘していたにもかかわらず,彼の書き残したもののきわめて大きな部分が,社会的,宗教的,教育的,経済的,言語的問題に関するものである。

ガンジーは非常に筆まめな人物であった。きちんとした返事を求める手紙で,彼が返信しなかったものは滅多になかった。私的な問題について助言を求める個人からの手紙も相当数あったが,これらに対するガンジーの回答は,同じ問題を抱える人々にとって役に立つものだ。生きていた期間の大部分,彼は速記者やタイピストを使うことなく必要なものは自分で手書きしていた。後に速記者やタイピストが欠かせなくなってからも,全部任せてしまうのではなく,自分で書いたものも多かった。時には身体的な理由から右手指では書けない時期もあったが,そのうちに左手で書くことを身に付けた。(このことは糸紡ぎでも同じだった。)そんなやり方で,ガンジーは私的な手紙のやりとりにかなりの時間を費やした。そのおかげで,ごく普通の人が日常生活の中でぶつかる問題について彼が何を助言したかを通じて,その教えの重要で奥深い部分を知ることができる。

生命を総合的にとらえ,一生を人類への奉仕に捧げた人間がかつていたとすれば,それこそガンジーである。彼のものの見方,考え方は信仰と気高い奉仕の精神によって支えられていたが,その行動と実際の教えとは,いつも道徳的であると同時にきわめて実践的であった。60年近くに及んだ公的指導者としての経歴を通じて,手近な成果を挙げるような考え方を,彼は決して取らなかった。換言すれば,彼は,良き目的を達成するためになら,悪しき手段も辞さないという考えとは無縁であった。どのような手段を選ぶかということについてきわめて厳格であったがために,用いられる手段の性格がまず吟味され,目的の達成はその後であった。悪しき手段によっては良き目的は達成できない,悪しき手段は達成される目的をゆがめてしまうというのが,彼の不動の信念であった。

マハトマ・ガンジーの書き遺したものと発言とを収集したこの全集の価値は,疑いもなく大きい。全集には,素晴らしく人間的でとてつもなく活動的だった偉人が,60年にわたって遺したメッセージ ― 前例のない運動を生み出し,育て,成功に導いたメッセージ,数えきれないほど多くの人々を勇気づけ,導いたメッセージ,新しい生活様式を編み出し,実現したメッセージ,時空を超えて人類すべてが共有する精神的,究極的な価値の持つ文化的価値を高めたメッセージ ― が記録されている。それらを後世に残そうとのこの試みは,まことに適切である。

ガンジーの,他者に対する揺るぎのない信頼と,人間の精神の中には道徳性が組み込まれているとの信念は人の魂を揺さぶる。彼の方法論の根底には,その信念がある。自由とは,彼の定義によれば,単に法令を制定することや,科学的技術的進歩によって獲得できるものではない。真に自由な社会を実現するには,まず社会をそれにふさわしいように組織しなくてはならず,その仕事は社会の構成員一人一人が始めなければならない。インドの国民生活がガンジーの理想に忠実で,それによって形作られていく限りにおいて,それはインスピレーションの源であり続けるだろう。そしてまた,独立したインドが彼の理想を実現しながら統合の度合いを高めていくならば,文化の地平を拡大し,新しい国造りに成功するだろう。

しかしながら,ガンジーの理想の多くは,今日でも十分に受け入れられているとは言い難い。ある社会秩序の自由度は,その構成員一人ひとりがどれだけ現実に自由を行使し得ているかによって評価されるべきだという彼の指摘は,人々に受け容れられている。しかしその一方で,中央集権化された組織というものは,それが工業的なものであれ,社会的なものであれ,政治的なものであれ,相応に個人の自由の制限をともなうものだという事実は,まだ十分には認識されていない。この中庸が見つけられ,採用されるまでにはまだ時間がかかるだろう。ガンジーの経済学はしばしば,欠乏生活とまでは言わなくても,禁欲生活の教えのように受け止められる。彼の説く規律も,色彩や美とは無縁の厳格なだけの道徳性と混同される。生きていくうえで,彼はほんの少しのものしか必要としなかった。それでいて何の不足もない豊かな生活を送った。信仰というものがすたれてしまった社会にあっては信じられないほどに崇高なその信念を,自らの生活において実践してみせた。ガンジーのアシュラムで,住人たちが毎日,朝夕欠かさなかった非暴力,真理,他人の物を盗まない,ブラーマチャリヤ(純潔),不所有,労働,食欲の制御,何事も恐れないこと,すべての宗教を尊重し寛容であること,不可触浅眠制度の廃止,義務の履行における自主性を誓う祈りと儀式は,このような文脈で理解すべきである。

この全集を手に取ることによって,ガンジーの命の流れに一歩でも足を踏み入れたものは誰も,決して失望することはなく,隠された宝を,自分の能力と信念に応じて,いくらでも発掘することができるだろうことを確約して,このオマージュを閉じることとする。

 

ラシュトラパティ バヴァン

  ニューデリー

 1958年1月16日