1888年9月4日

 

さて,航海について書いておこう。船が錨を揚げたのは午後5時ころだった。船旅には不安があったが,心配したことはなかった。航海の間,一度も船酔いにもならなかったし,吐くこともなかった。汽船で旅をするのは,人生で初めての経験だった。私は,航海を存分に楽しんだ。6時ころに夕食の鐘が鳴った。テーブルにつくよう船員に促された。しかし,私は食堂には行かず,持参した食料を食べて済ませた。最初の晩マズムダル氏が私に見せた態度が大らかだったので,大変驚いた。まるで長年の知り合いのように私に話しかけてくれた。彼は黒のコートを持参していなかった。それで,私は,彼が夕食に行く時に,自分のコートを貸してあげ,彼はそれをまとってテーブルに着いた。その晩以来,私は彼が好きになった。彼は,私を信用して自分のカギの束を私に預けた。私は彼のことを自分の兄のように思うようになった。船客の一人にアデンまで行くというマラタ人の医師がいた。この人も,いい人のように見えた。二日間,私は持参したお菓子と果物とで生活した。三日目に,マズムダル氏が年少の船員との間で,私たちのために料理をしてくれるよう交渉し,成功した。私にはそのような交渉を成立させる能力はなかった。私たちは大部屋の船客だったが,一等船室に乗っているモスリムの船客が一人いた。彼を含め3人で,夕食を楽しんだ。

船そのもののことも書いておこう。私はこの船のつくりがとてもお気に入りだった。船室でも,大部屋でも,座っていると船に乗っていることを忘れてしまう。動いていることを全く感じないことすらある。船員たちの動きは機敏で,賞賛に値した。船にはいくつかの楽器が備え付けられていた。私は時々ピアノを弾いた。トランプ,チェス,チェッカーゲームも用意されていた。ヨーロッパ人の船客たちは,夜になるといつもゲームをして遊んでいた。甲板は船客にとって最大の休息場所だった。船室にずっといると退屈してしまう。甲板に出ると新鮮な空気が吸えるので生き返る。勇気があってその気にさえなれば,他の船客と話をして友達になれる。

天気が良い日の甲板からの景色は素晴らしい。ある月夜に海を見ていた時のことだ。月が海面に写って反射していた。波が動くと,まるで月自身があちらこちらに動いているように見えた。月のない晴れた夜,海面にたくさんの星が反射していた。船の周りが美しく光っているように見えた。最初私はそれが何なのか分からなかった。無数のダイヤモンドのように見えた。でも,ダイヤモンドは水に浮かないことは分かっていた。夜にだけ現れる虫が光っているのかとも思った。そんなことを考えながら空を見上げたら,瞬時に悟った。夜空の星が海面に反射していたのだ。自分の妄想に自然と笑えた。海面に写った星の様子は,まるで花火のようでもあった。バンガローのデッキに立って目の前で打ち上げられる花火を見ていると想像したまえ。そんな感じだ。私は何度もこの風景を楽しんだ。

船の上で,私は5日間ほど,他の乗船客としゃべらないこともあった。毎朝8時に起きて,歯を磨き,トイレを済ませ,沐浴をした。イギリス式の水洗便器には驚かされた。水ではなく,紙で体をきれいにしなければならなかった。

約5日間の船旅を楽しんだ後,船はアデンに近づいた。そこまではひとかけらの陸地も山も見たことがなかった。乗船客は誰もかれも単調な航海に退屈し,陸地を見たがっていた。6日目の朝,とうとう陸地が見えた。皆嬉しそうで,陽気だった。午前11時,船はアデン港に錨をおろした。小舟に乗った子供たちが船に近寄ってきた。子供たちの泳ぎの技術は素晴らしかった。ヨーロッパ人の何人かが海にコインを投げた。子供たちはそれを追いかけて深いところまで潜り,見つけて上がってきた。自分もあんなに潜れたらいいのにと思った。見ていて飽きない風景だった。

30分ほど,この風景を楽しんだ後,アデンの街を見物に出かけることにした。それまで,インドから乗船した私たちはといえば,コイン1枚も投げずに,子供たちがコインを上手に見つけてくるのをただ見ているだけだった。ヨーロッパ人の金銭感覚を知るようになったのは,この日が最初だった。

私たちは3人で2ルピーを払って小舟を雇った。海岸までの距離は1マイルもなかった。15分で上陸できた。海岸からは馬車を雇った。アデンでのたった一つの見所だという浄水場に行きたかったが,運悪く時間が足りなくなった。それで,アデンの街を見物した。いい街だった。建物はきちんとしていた。たいていは商店だった。建物の構造は,ラジコットの街の平屋建ての建物,それも役所のものと似通っていた。街では泉とかきれいな水が流れている場所を見つけることはできなかった。溜池だけがきれいな水を手に入れることのできる場所のようだった。照りつける太陽の暑さは相当のもので,ぐっしょり汗をかいてしまった。アデンは紅海からそう遠くないからだろう。木が一本も生えておらず,緑の植物が何も見えなかったことに私は驚いた。ラバやロバが人々の移動手段だった。私たちも望めばラバを雇うことはできた。街は丘の上にあった。船に戻った時に船の船頭に聞いた話では,あのコインひろいの子供たちは時折怪我をするのだそうだ。ある子は脚を,ある子は腕をサメに噛まれるからだという。それでも貧しい子供たちは,私たちならとても怖くて座っておれないような小さな船に一人乗って,集ってくるのだ。馬車の代金は一人1ルピーだった。

船は正午に錨をあげ,アデンの港を後にした。しかし,この日以降はずっと陸地が見えた。夕方になって,船は紅海に入った。途端に暑さを感じるようになった。私には,それはボンベイで言われていたような,焦げるような熱さというほどではなかった。とはいうものの,船室に留まっていることは不可能だった。直射日光も耐え難かった。船室には,誰であっても頼まれても2,3分もじっとしておれなかっただろう。しかし,甲板に出れば,いつも強い風が吹いていて新鮮な空気が吸えるから,それだけで気持ちがいい。私はそれで甲板にいることにした。たいていの乗船客は甲板で眠った。私もそうした。朝,陽が昇るともう耐えられない熱さになった。しかし,甲板にいればいつも安全だった。このようなひどい暑さは3日続いた。4日目の夜に船はスエズ湾に入った。随分遠くから,スエズ湾に浮かぶ船の灯りが見えた。紅海はある場所では広いが,ある場所では極端に狭くなっている。狭いところでは船の両側に陸地が見えた位だ。スエズ運河に入る前に船は地獄の門と呼ばれる場所を通過した。そこは両岸が丘になっている狭い水路だ。多くの船がそこで沈没したので地獄の門と呼ばれるようになったのだ。紅海で朽ち果てている一隻の船を見た。船はスエズの港に半時間位停泊した。だれかが,さあこれから寒くなるぞと言った。アデンを出るときには,ここから先は酒なしではおられないといった人もいた。しかし,そんなことはなかった。その頃には乗客仲間と少しは話をするようになっていたが,その何人かが,アデンから先では肉を食べないと体が持たないと言っていた。これもそんなことはなかった。船首部分に燈された灯りで,私は生れて初めて電気の光を見た。それは月明かりのようだった。その明りで,船首部分はとてもきれいに見えた。・・・・スエズ運河は,私の理解を超える工事だ。素晴らしいとしか言いようがない。こんなことを考え付き,実現した人物の才能にただ脱帽する。どのようにしてこんな工事を完成させることができたのだろう。彼は自然と格闘したというべきだろう。二つの海をつなげるのは,容易なことではない。運河を通過できる船は1隻に限られる。熟練した水先案内人が先導する。船はゆっくりとした速度で進む。乗客は船が動いているのを感じないくらいだ。運河の水はひどく濁っている。深さがどれくらいだったかは忘れてしまった。幅はラムナーのアジ河位だった。両岸を通る人々がよく見える。運河印ペンの土地は痩せていた。運河はフランスの物だ。イスマイリアの方から別の水先案内人がやってきた。運河を通過する船から,フランスが料金を徴収している。その収入は莫大なものに違いない。船首の電灯とは別に,船の両側の約20フィートの距離の所に灯りが並んでいた。そちらの灯りの色はさまざまだった。船はその明りの列の間を進んでいった。運河を通過するのに約24時間かかった。風景の美しさは表現のしようもないくらいだ。その美しさは実際に見てみなければ分からない。運河の終点はポートサイドだ。ポートサイドはスエズ運河で成り立っているといっていい。私たちの船は夕方にポートサイドに錨をおろした。船はそこに1時間停泊しただけだったが,街を見るにはそれで十分だった。ここから通貨はイギリスの通貨に変わった。インドの通貨はここでは何の役にも立たなかった。上陸するのにボートを雇ったが一隻について6ペンスかかった。1ペンスは大体1アナに相当する。ポートサイドの建物はフランス風だった。フランス風の暮らし方を垣間見ることができた。コーヒーレストランがあった。最初見た時には劇場かと思った。しかし,実際にはただのコーヒーレストランだった。店の半分ではコーヒー,ソーダ,紅茶,その他の飲み物が何でも飲めた。もう半分では音楽を聴けるようになっていた。弦楽器を奏でている女性たちがいた。ボムベイでは1ペンス以下で手に入るレモネードと呼ばれる飲み物は,ここでは1本12ペンスした。音楽を聴くのは無料だとのことだったが,実際にはそうではなかった。演奏が終わるとすぐに女性が一人ハンカチで覆ったお皿を持って一人一人のお客のところにやってくる。それはまさにお金集めのためだし,実際誰もが何がしかを差し出さなければいけない決まりになっている。カフェに入っていた私たちは,6ペンスを皿に入れた。ポートサイドは金持ちの住む場所だ。男も女もずる賢い。通訳がガイドをするといって付いて回る。きっぱりと断らないといけない。ポートサイドの街は,ラジコットのちゃんとした街ほどの大きさもない。船は午後7時にポートサイドを離れた。

乗客の中でジェフレイズ氏は私にとても親切にしてくれた。いつも同じテーブルに座るように声をかけてくれ,そこに食べ物を用意してくれた。しかし,私は断った。彼は,ブリンディシを過ぎると寒くなると言っていたが,そうでもなかった。そのブリンディシに着いたのは3日後だった。船が海岸に横付けになったので,梯子を使って上陸した。すでに暗くなっていたので,街の様子はあまりよくわからなかった。誰もがイタリア語を話していた。道路には石が敷き詰められていた。小さな通りには坂があった。そこも石が敷き詰められていた。灯りはガス灯だった。ブリンディシ駅を見たが,BB&CI鉄道の駅のように美しくはなかった。ただ,列車はインドよりずっと大きかった。交通量は多かった。ブリンディシに上陸すると,男が近寄ってきて,君が有色人種であるなら,「旦那,14の可愛い娘がいますよ。付いて来れば,案内しますぜ,旦那。なーに,そんなに高くはないです,旦那」と持ちかけてくる。初めは戸惑うだろう。しかし,落ち着いて,きっぱりとこう言えばいい,「私には興味のない話だ。どこかに行ってしまえ。」それで安全だ。何か問題が生じたら,すぐに近くの警官を呼ぶか,どこにでもある大きな建物に駆け込めばいい。ただ,その建物にかけられている看板を見て,公衆にの出入りが許されているものかどうかだけは確かめる必要がある。そうすれば危ないことはない。それくらいのことは直ぐにできる。そこにいるポーターに,困っていることを話せばいい。どうすればいいかすぐに教えてくれる。もし,勇気があれば,ポーターに町の長官のところに連れて行ってもらい,一部始終を報告するのもいいだろう。なぜ大きな建物かというと,大きな建物はトーマスクックかヘンリーキング,あるいは同じような会社の建物に違いないからだ。そこでなら助けを得ることができる。そんな時はケチってはいけない。ポーターにいくらか払った方がいい。ただし,それをするのは,これは危ないと感じたときだけにしたほうがいい。しかし,頼りにできる大きな建物は海岸沿いにしかない。海岸から遠く離れた場所にいるときは,警官を探すしかない。警官が見つからなければ,後は自分の良心に頼るしかない。私たちはブリンディシを朝早くに出航した。

三日後にマルタ島に着いた。船は午後2時に錨をおろした。4時間近く停泊するとのことだった。アブドルマジド氏が私たちと一緒に行きたいと申し出た。何があったのか,いくら待っていても彼はやってこなかった。私は待ちきれなくなっテ,ジリジリしていた。マズムダル氏が,「マジドさんを置いて,我々だけで出かけましょう。」と口にした。私は,「お考えに従います。異存はありません。」と答えた。それで話が決まって,私たち二人だけで出発した。戻ってきた時,アブドルマジド氏に会ったら,先に行かれてしまってとってもがっかりしたと言われた。これに対し,マズムダル氏が,「ガンジーさんが待ちきれなくて,あなたを待たずに出かけましょうと言い出したんです。」と答えた。そんなことを言われて,私は随分気分が悪かった。しかし,その場で濡れ衣を晴らすことはせず,黙っていることにした。私が一言,アブドルマジド氏に,「マズムドル氏が本当にあなたを待ちたければ,私の言うとおりにしなければよかったのに。」と言いさえすれば,濡れ衣はきれいに晴れただろうことは分かっていた。それで十分,マズムドル氏に従う以外,私には方法がなかったことが伝わっただろうと思う。でも,その時は,そうする気はさらさらなかった。その日以来,私はマズムダル氏に対する評価を下げ,敬う気持ちが亡くなった。このこと以外にも二,三のことが重なったので,日々彼に対する好意は減少していった。

マルタ島は興味の尽きない場所だ。見るものに事欠かない。残念なことに,私たちに許された時間は十分ではなかった。前にも書いたように,マズムドル氏と私は二人連れだって上陸した。そこでとんでもない悪い男につかまってしまった。随分損をした。たくさんの小舟に乗せられ,街を見て回るのに馬車を雇った。悪い男は私たちについて来た。半時間位馬車に乗って,サンジュアン教会に着いた。教会は美しい建築物だった。そこでは,著名人たちの骨格を見学した。どれもずいぶん古い時代の物だった。教会を案内してくれた人に1シリングを払った。教会の向かい側にサンジュアンの像が立っていた。そこから街に向かった。道路は舗装されていた。舗装した道路の両側には歩道が設けられていた。島全体がとても美しかった。素晴らしい建物がいくつもあった。私たちはアルモウリーホールを見学しに行った。ホールはきれいに飾られていた。そこでとても古い絵を何枚か見た。よく見ると絵ではなく,刺繍だった。初めて見る者には,そうと説明されなければまさに絵に見える作品だった。ホールの中には,古い時代の戦士たちが使った武器が展示されていた。どれも見る価値のあるものだった。記録を残していないので,そのすべてを思い出すことはできない。30ポンドもある兜が展示されていた。ナポレオンボナパルトの馬車は華麗だった。ホールを案内してくれた者に6ペニーのチップを渡して,帰途に就いた。教会とホールを見学するときには,敬意を表するために帽子を取らなければならなかった。それから,男の店に立ち寄った。彼は我々に何か買わせようと頑張っていたが,買うそぶりは見せなかった。最後に,マズムダル氏がマルタ島の景色の絵を2シリング6ペンスで買った。男は通訳をつけてくれて,自分自身は付いてこなかった。その通訳は大変いい人物だった。彼は私たちをオレンジ公園まで馬車に乗せてくれた。公園を見物した。私は公園を全然気に入らなかった。私には,ラジコットの公立公園の方がずっと好きだ。見る価値のあったものと言えば,小さな水槽の中で泳いでいた金色や赤色の魚だけだった。それから又町の戻って,ホテルに入った。マズムドル氏はジャガイモと紅茶を注文した。そこへ行く途中で,あるインド人に出会った。マズムドル氏は気さくな人物だったので,そのインド人に声をかけた。話をしているうちに,そのインド人の兄がマルタ島で店をしていることが分かった。それで,直ぐにその店を訪ねることにした。マズムドル氏は店主と会話を楽しんだ。私たちはその店でいくつかの物を買い,2時間過ごした。そのため,マルタ島を見る時間が残り少なくなってしまった。私たちはもう一つ教会を見学した。その教会も非常に美しく,見る価値があった。オペラハウスを見たかったが,時間が無くなった。私たちは出会ったインド人と別れた。彼は別れ際にマズムドル氏に自分の名刺をわたして,ロンドンにいる兄弟に渡すことを頼んだ。帰り道,悪い男がまたやってきて,午後6時に付いてきた。海岸に着いたので,悪い男と,よい通訳と,馬車の魚産業廃棄物にそれぞれ支払いをした。小船の船頭とは料金のことでもめた。結局,買ったのは船頭だった。この島では思い切り騙された。

クライド号は午後7時に出航した。3日間の航海の後,ジブラルタルの港に午後12時に到着した。船はその夜はずっと停泊していた。私は,ジブラルタルの街を見る気満々だったので,朝早く起きた。そして,マズムドル氏を起こして,私と一緒にジブラルタルの街を見に出かけるかどうか尋ねた。彼はいっしょに行くと答えた。マジド氏のところへ行って,彼も起こした。そして3人で上陸した。出航まで残された時間は半時間だけだった。まだ夜明けの時刻だったので,店はみんな閉まっていた。ジブラルタルは非課税の港なので,たばこがとても安いと聞いていた。街は大きな岩の上に建てられていた。一番上には要塞があるのだが,時間がなくてそこまで行くことはできなかった。家々は列に並んで建てられていた。1列目から2列目に行くには,階段を何段か登らなくてはならなかった。私は,その作りが大変気に入った。街のつくりは美しかった。道路は舗装されていた。時間がなかったので,早々に戻らなければならなかった。船は午前8時半に錨を上げた。

3日後の午前11時,プリマス港に到着した。ようやく寒くなった。乗船客の誰もが,肉を食べてお酒を飲まなくては死んでしまうと言っていたが,私たちは生きていた。寒さは相当なものだった。嵐が来るだろうという人がいたが,それはなかった。私は嵐を体験できると期待していたが,外れてしまった。夜なのでプリマスの街は何も見えなかった。深い霧が立ち込めていた。やっと,船はロンドンに向けて出航した。24時間たたないうちにロンドンに到着した。1888年10月27日[1]午後4時,私たちは,ティルベリー駅を経由してヴィクトリアホテルに到着した。

 

[1] 資料には「28日」とあるが,その日は日曜日なので,明らかな誤記である。自叙伝の第1部第8章で,ガンジーはロンドンには土曜日に着いたとしているので,そうだとすると10月27日ということになる。