第一論文「真理の根幹」の後半

 

どんな場合でも,どんな人に対しても,自分のことを真っ先にする考えを捨てて接すれば,最大の報酬が得られるものです。私はここで,愛情をそれ自体好ましいものだとか,崇高なものだとか言っているのではありません。どんな経済学者の損得計算も無効にしてしまう不思議な力だと見ているのです。経済学のいう動機や条件の一切を無視したときにはじめて,愛情が動力として働き始めるのです。感謝の念を利用するつもりで使用人に親切を施す者は,感謝もされなければ経済的な利益を得ることもないでしょう。反対に,何の経済的利益も期待しないで使用人に親切を施す者は,すべての経済的利益を手にすることでしょう。まさに,命を守ろうとする者はそれを失い,命を捨てる者はそれを得るのです。

主人と使用人の関係を理解するのに分かりやすいもう一つの例は,部隊長と部下の兵士たちとの間に存在する関係です。

部隊長が,部下たちを最大限効率よく動かす一番手軽な方法として,規律を厳しく徹底したとします。そのような自分中心のやり方では,部下たちの力を最大限に引き出すことはできないでしょう。反対に,部隊長が,部下たちとできるだけ直接的で個人的な付き合いをし,彼らの利益に配慮して,彼らの生命を尊重するならば,部下たちは部隊長を愛し信頼して,その結果,他の方法では決して得られない力を発揮するでしょう。このことは,部隊の兵士たちの人数が多ければ多いほど,より厳密に当てはまります。確かに,部下たちは部隊長を嫌っていても,命令されたことはやり遂げるかもしれません。しかし,ことが戦闘ということになると,部下たちが部隊長を愛していない限り,勝てることはまれなのです。

古代の高地部族のように盗賊目的で結束している集団であれば,完全な愛情で結ばれていて,メンバーの誰もが頭目のためには命を投げ出す用意があるでしょう。けれども,合法的な製造を目的として集められた労働者の集団では,そのような感情は共有されておらず,集団の長のために進んで命を投げ出す者などいないでしょう。なぜなら,使用人も兵士も,ある決められた期間,決められた賃金で雇われているのに対し,労働者の賃金は労働力需要によって変動し,事業がうまくいかなければいつでも解雇される危険があります。そのような条件下では,愛情に基づく行為がなされる余地はなく,不満が爆発するだけでしょう。ここで,二つのことをよく検討しなければなりません。

1.賃金水準が労働力需要に左右されないようにするためには,どこまで規制してよいか。

2.旧家で長年働いている使用人や,精鋭部隊の兵士たちが持っている高い士気に匹敵する恒久的な愛着を,労働者が従事している仕事に持ち続けられるよう,(市場の状況がどうであっても)一定の賃金を支給し,雇用を確保することはどこまで可能か。

1.大変奇妙なことに,経済学者たちはこれまで,労働力需要の変動に左右されないように賃金水準を規制することは不可能だと言ってきました。これはまちがっています。

我々は誰も,自分たちの首相をダッチ・オークション(セリ下げ)にかけたりはしません。病気になったときには,1ギニーも取らないような医者にはかからないでしょう。訴訟をするときには,6シリング8ペンスの料金を4シリング6ペンスに値切ったりしません。急な夕立にあったときには,馭者に1マイル6ペンス以下の料金で乗せてくれなどと,無理は言わないのです。

一番いい労働者はこれまでも,そして今でも,決まった水準の報酬を支払われてきましたし,そうすべきなのです。

「何だって!腕のいい職人にも,悪い職人にも,同じだけ払えと言うのか?」と読者は尋ねるかもしれません。

そのとおりです。たとえば,説教師は魂を癒す職人です。医者は体を治す職人です。いい説教師にも悪い説教師にも,いい医者にも悪い医者にも,あなたは甘んじて同じ報酬を払うでしょう。それ以上の道理で,あなたの家を直してくれるのなら,腕のいい職人にも悪い職人にも,同じだけの報酬を払うべきなのです。

「でも,私は自分の見識で腕のいい医者を選びますよ。」とあなたは言うかもしれません。ぜひ,そうしてください。レンガを積んでもらうのに腕のいい職人を選ぶのは至極当然のことです。そして,「選ばれる」ことは腕のいい職人にふさわしい報酬です。労働を正当に評価するには,決まった水準の報酬を支払うべきですが,腕のよい職人は仕事を得,腕の悪い職人は仕事に就けないということは起こります。まちがったやり方は,標準の半分の報酬で雇えるからといって腕の悪い職人を使い,腕のいい職人の職を奪ったり,互いに競争させて腕のいい職人の報酬を不当に引き下げたりすることです。

2.私たちが目指すべき第一の目標が賃金の平等だとすると,第二の目標は,労働者が作り出す製品に対する需要が偶然の要素によって変動しても,同じ人数の労働者を雇用し続けることです。

仕事が中断しがちな場合には,仕事が確保されていて継続的な場合に比べ,労働者の生活を可能にする賃金は必然的に高くつきます。後の場合には,労働者は,低くても一定額の賃金を受け取るでしょう。労働者の雇用を一定に保つように規制することは,長い目で見れば,労働者にも使用者にも良いものです。この場合,使用者は莫大な利益を上げることも,大きな危険を冒すことも,賭けにふけることもできなくなります。

兵士たちは,部隊長のために命を投げ出す覚悟でいるからこそ,普通の労働者よりもずっと尊敬されています。兵士の務めは実のところ,人を殺すことにではなく,人を守るために自分の命を投げ出すことにあります。世間の人々が兵士を尊敬するのは,国を守るために彼らが命を懸けているからなのです。

私たちが法律家,医師,聖職者を尊敬するのも,彼らが自己犠牲の精神で働いてくれるからです。法律家は,ひとたび裁判官席に座ると,どんな結果になろうとも,ひたすら正義にかなった判決を目指します。医師は,どんな困難な状況の下でも,患者のために腕を奮います。聖職者も同じように,信徒たちを正しい道に導くことに努めます。

これらのいわゆる教養ある職業の有能な人々はすべて,会社の社長よりも人々にずっと尊敬されています。それは,商人というものは,自分の利益第一に行動すると考えられているからです。商人たちの仕事は,社会にとってとても必要なものです。しかし,商売の動機は完全に利己的なものだと世間では思われています。商人は,取引ではいつも顧客の取り分をできるだけ少なくし,自分の取り分をできるだけ多くするのを第一の目的にしているに違いない,人々はそう信じています。そうすることが商人の行動原則だと,法規まで定めて強制しています。人々は,値切ることが買い手の仕事で,騙すことが売り手の仕事だ,それが宇宙の法だとして,自らそれに従っているのに,商人がその法のとおりに行動していると非難し,一段下の階層の人間だとレッテルを貼っているのです。

こんなことは終わりにしなければいけません。自分の利益だけを考えるのではない商売のあり方を見つけなければなりません。そのような商売は過去に存在したことはありません。しかし,それ以外の商売というものはあり得ないのです。これまで商売と言われてきたものは,実は化かし合いでしかなかったことに気付かなければなりません。真実の商売にあっては,真実の説教や真実の戦闘と同じように,時には進んで何かを失うことを受け入れなければなりません ― 兵士が義務感をもって命をささげるように,商人も義務感をもって6ペンスを失うべきときがあるのです。商売においても,信仰や戦争におけると同様に,殉教や英雄的行為ということがあってしかるべきです。

文明国には五つの偉大な知的職業があります。

兵士の仕事は,国を守ることです。

司祭の仕事は,国を導くことです。

医師の仕事は,国民の健康を保つことです。

法律家の仕事は,国に正義を行き渡らせることです。

商人の仕事は,国中に生活物資を供給することです。

そして,これらの職業に就いている者のすべきことは,いざという時にはその仕事のために命を投げ出すことです。いつ死ぬべきかを知らない者は,いかに生きるべきかを知らないのです。

国中に生活物資を供給することが商人の職分だということに,注目してください。司祭の職分が俸給をもらうことではないのと同様,商人の職分は利益を得ることではないのです。まともな司祭にとって,俸給は必要な付属物ではありますが,人生の目的ではありません。また,まともな医師にとって,治療費(あるいは報酬)が人生の目的ではありません。同様に,まともな商人にとって,代金は人生の目的ではありません。三者とも,もしまともな職業人であるなら,万難を排して,たとえ代金がまったく得られなくても,果たさなければならない職分があるのです。司祭の職分は導くことであり,医師の職分は治療することであり,商人の職分は供給することです。つまり,商人はその第一の職分として,自分が扱っている物資を最高の品質で入手し,最も必要としている地域に,できる限り安価に供給することに全精力を注ぐべきなのです。

ところで,どんな物資の生産にも多くの人々が関わっていますから,商人は,その仕事の過程で,軍隊の指揮官や司祭以上に,直接的にそれらの人々の指揮者となり統率者となります。そのため,自分が関わる人々の生活に相当程度大きな責任を負っていることになります。物資を良質かつ安価に生産することだけではなく,生産に携わっているすべての人々の生活が維持できるようにすべきであり,それが,商人の第二の職分なのです。

これら二つの職分を果たすには,最高の知恵を発揮し,忍耐と,思いやりと,才能をもってあたることが必要です。商人はそのことに全精力を注がなければなりません。そして,兵士や医師がそうするように,必要なら,人々に求められる場面で,命を投げ出す覚悟を持つべきです。

ここで商人として遵守すべき大切なことが二つあります。第一は雇用を守ることであり,第二は供給する製品の完全性を守ることです。これらを遵守することで,わが身にどんな困難や貧乏や苦労が降りかかってきても,働き手を解雇したり,あるいは自分の製品の品質を落としたり,混ぜ物をしたり,不当な値段をつけたりすることなく,毅然として立ち向かわなければなりません。

自分が雇用している人々の主人として,商人は父親のような権威と責任を与えられています。若者はたいてい家庭から完全に引き離されて商売の世界に入ってきます。若者には頼りにできる父親はもう身近にはいないのですから,商人が若者の父親にならなければなりません。そういう立場の若者を正しく遇するただ一つの方法は,自分自身の息子が同じ立場にいた場合にするような扱いをしているかどうか,厳格に自問自答することです。

駆逐艦の艦長が自分の息子を一水兵として乗船させなければならない事態になったときのことを考えてみてください。艦長は常に,その息子を遇するように他の部下全てを遇さなければなりません。工場の支配人が自分の息子を一工員として働かせなければならない事態になったときも,同じです。支配人は常に,その息子を遇するように他の工員全てを遇さなければなりません。これこそが,経済学における,唯一の効果的で,まっとうで,かつ実際的な法則なのです。

船長は,船が難破したときには最後まで船にとどまるべきとされ,食料が尽きたときにはパンの最後の一切れを船員たちと分かち合うべきだとされています。まさにそれと同様に,製造者は,どんなに景気が悪いときでも,その苦しさを労働者たちと共にし,それどころか労働者たちよりもっと多くの苦しみを引き受けるべきなのです。飢饉のときに,あるいは難破した船や戦場で,父親が自分の命を捨てても息子を守ろうとするのと同じように振舞うべきなのです。

以上の話は,実に奇妙に聞こえるかもしれません。しかし,本当に奇妙なのは,それが奇妙に聞こえてしまうということなのです。これまで述べたことは永遠の真実であり,実際的な観点からも真実です。これ以外の考え方では,国民生活を進化させていくことはできません。現在私たちが国家として享受している生活全般がどのようなものであるかは,少数の強靭な精神を持った人々と,事実を見つめる人々が,大衆に教え込まれた経済学の諸原則を否定していることで明らかです。経済学の諸原則を受け入れてしまえば,国家は崩壊してしまいます。どのような形で崩壊するのかについては,以下の頁でさらに詳しく論じます。

 

第二論文「富の本質」に続く

 

        ラスキン

    「この最後の者にも」

                その真髄

 

                M.K.ガンジー

 

前回の序章に続いて、第一論文の翻訳を掲載します。

 

 

          第一論文

               真理の根幹

 

人類は様々な時代に様々な幻想にとらわれてきました。そのうち,おそらく最も強力で,かつまちがいなく最も信用ならないものは,人の有意な行動原理は社会的情愛のもたらすものとは無関係に決定される,とする近代の経済学です。

もちろん,経済学も他の幻想同様,一見もっともらしい根拠を持っています。経済学者は,「人の本性の中で,社会的情愛は偶発的で撹乱的な要素であるのに対し,進歩への渇望は恒常的なものである。そこで,偶発的な要素は除外して,人は富を作り出す機械であると単純に考え,労働,仕入,販売について,どんな法則に従えば最大の富が蓄積できるかを検討しようではないか。いったん法則さえ決定されれば,その後各人がどれだけの不確定な情愛的要素を加味しようが自由である。」と言うのです。

この説は,後で加味される偶発的な要素が,最初に検討される要素と同じ性格のものであれば,論理的に正しい分析方法でしょう。たとえば人の体の動きです。人は,恒常的な力と偶発的な力で動いていますが,どちらも同じ性質の力です。この場合は,まず恒常的条件の下で体の動きを検討し,その後に偶発的条件を加味して修正するという方法で,体が次にどう動くかを予想するのが一番簡単な方法でしょう。しかし,社会的問題における撹乱的要素は,その恒常的要素とは性格が本質的に異なっています。いったんそれを加味すれば,対象の性格そのものが変化してしまいます。撹乱的要素の影響は算術的ではなく,化学的なものですから,条件が変わってしまい,それまでの知識が役に立たなくなるのです。

よって立っている諸前提が正しいのであれば,私も経済学の結論を受け入れることができます。しかし,今の経済学は,人には骨格がないと前提している体育学のようなもので,私には何の興味もありません。そのような前提に立てば,学生を丸めてボールにすることも,ケーキのように平らにすることも,引き延ばして筋状にすることも自由自在でしょう。そうした後に,無理やり骨格を入れ込んであれこれ考え直そうというのです。理屈は立派で,結論も正しいかもしれません。ただ,現実に適用することはできません。そのような体育学に,私は関心がありません。経済学もまったく同じで,人は肉体でのみで生きており魂はない,という前提で法則を作り上げます。人という,魂が優越的な要素である存在に,そのような法則が適用できるはずがありません。

経済学は科学の名に値しません。労働者がストライキに打って出た場面では,経済学は何の役にも立たないのです。使用者側は自分たちの見解に固執し,労働者側は別の見解を主張します。経済学では,この双方の対立を真に解消することができないのです。何人もの論客が,使用者側の利益は労働者側の利益と対立するものではないと証明しようとしましたが,成功した試しがありません。実際のところ,お互いの利益が対立すれば人は必ず対立する,というものではないはずです。家の中に一切れしかパンがなく,母親も子供たちも共に飢えている状況では,双方の利益は同じではありません。母親がそのパンを食べれば,子供たちは食べるものがありません。子供たちが食べれば,母親は空腹のまま仕事に出かけなければなりません。それでも,双方の利益が対立するから母親と子供たちがその一切れのパンを巡って争い,一番強い母親がそれを食べてしまうだろう,とは言えないのです。同じように,利益が異なるからといって,互いに相手を敵視し,優位に立つには暴力や策略を使うしかない,ということにもならないのです。

道徳の力が人の行動原理になる程度は,鼠や豚における以上のものではないと仮定したとしても,使用者と労働者の利益はほぼ同じであるとか,いや対立しているものだとか決めつけるわけにはいきません。状況により,どちらでもあり得るからです。仕事がきちんと達成され,妥当な賃金が支払われることは双方にとってまちがいなく有益なことです。しかし,もうけの分配の場面では,一方の得が他方の損になることも,そうはならないこともあり得るのです。使用者が賃金を少ししか払わないために,労働者が病弱で士気の上がらない状態に置かれることも,労働者があまりに高い賃金を取るために,使用者が事業を安全かつ闊達に維持できないようになってしまうことも,どれもみな有益なことではありません。会社が貧しくて機械の動輪をきちんと整備できないようなときには,操縦士は高い賃金を要求すべきではないのです。

したがって,利益の均衡という視点から人の行動原理を導こうとするあらゆる企ては失敗します。失敗して当然なのです。神は,人間を利益の均衡ではなく,正義の均衡に導かれて行動するように創造したからです。利益の均衡を図ろうとする試みがいつも失敗に終わるのは,神の意志によるのです。行動している最中に,自分や周囲の者にとって最終的な利益がどうなるかを予知できる人は誰もいません。けれども,今,何が正義にかなった行動であり,何が不正義な行動であるかなら,誰でも分かるでしょう。たいていの人はその区別ができるものです。私たちは誰も,何が最も得であるか,それがどうしたら手に入れられるかを指摘できなくても,正義に則って行動した結果は結局のところ,自他ともに可能な限りの一番良い結果であることは知っているのです。

私は,正義という言葉を愛情-人が他者に抱く慈しみの感情-も含んだ意味で使用しています。使用者と労働者の関係がうまくいくかどうかも,この意味の正義によって決まってきます。

分かりやすい例として,家庭における使用人の労働条件の場合を取り上げてみましょう。

主人が,自分の支払う賃金で,使用人を徹底的に働かせることしか考えていないとします。片時もゆっくりすることを許さず,最小限の食べ物しか与えず,病気になってしまいそうなところに住まわせるのです。そうしていても,世間でいう「正義」には反してはいないでしょう。主人がどこまで厳しくできるかは,近隣の雇い主たちの扱いとの比較で決まってくるものの,使用人とはその時間と労働の全部を提供してもらうことで合意している,自分にはそれを使い切る権利がある。もし,使用人がもっと良い主人を見つけられるのなら,そちらに移るのは自由だ,というわけです。

経済学者たちは,上記のように主張します。そのような仕組みによって,使用人に最大限の労働を提供させることができ,それは社会に最大限の利益をもたらし,ひいて社会を通じて使用人自身にも利益がもたらされると断言します。

しかし,それは真実ではありません。使用人が,蒸気や磁力,あるいは他の計算可能な動力で動くエンジンならば,そういうこともあるでしょう。けれども,正反対に,使用人は魂という動力で動くエンジンです。魂の力は,経済学者が知らないうちにあらゆる方程式の中に入り込み,想定した結果をすべて変えてしまいます。この不思議なエンジンは,報酬や強制の力では最大限の能力を発揮することはありません。このエンジンの動力に最も適合する燃料,すなわち愛情の力によって魂の出力が最高点にまで引き出された時に,はじめて最大限の能力を発揮するのです。

確かに,主人が分別と活力を備えた人物であれば,使用人に無理やりたくさんの大事な仕事をやらせることができるでしょう。同じように,主人が怠惰で活力もなければ,使用人はできの悪い仕事を少ししかしないということもよくあります。けれども,主人と使用人双方の分別と活力を一定と仮定すれば,その場合,最大の成果は,双方が互いに反目することによってではなく,互いに愛情をもって接することによって達成されるのです。これこそ,普遍的な真理です。

使用人がしばしば主人の寛大さにつけ込んだり,好意を裏切ったりすることがあるからといって,この真理はほんの少しも揺らぐことがありません。なぜなら,寛大にされたことを何とも思わない使用人は,もし厳しく扱われれば恨みを抱くようになるでしょうし,寛大な主人にさえ不誠実な使用人は,非道な主人に対しては害を働くことになるからです。

(第一論文の後半に続く)

  

若く,まだ苗木のようなガンジーは,親族の支援を受け,又使える限りのあらゆるコネに助けられて,ようやくイギリスに向けて出航した。イギリスでの留学生活について書き残した文章を掲載する前に一休みして,ガンジーがずっと後に,マハトマと呼ばれるようになってから書いた冊子の一つを紹介しよう。私の知る限り,冊子としてのまとまった翻訳はこれが本邦初公開である。

 

                ラスキン

    「この最後の者にも」

                その真髄

 

                M.K.ガンジー

 

                ナバジバン出版

                アーメダバード 14

 

 

この最後の者にも:その真髄

 

 

ガンジーの他の著作

 

自叙伝

南アフリカにおけるサッチャグラハ

サッチャグラハ

平和と戦争における非暴力 Ⅰ-Ⅱ

イエラダマンダルより

アシュラムの生活

健康の秘訣

インドの自治

自制と放縦

デリー日記

村落の再建

真実こそ神

建設的行動計画

牛との関わり方

カディー(手織りの衣服)

学生諸君へ

女性に対する社会的不正義

食料不足と農業問題

食品と食品改革

酒,麻薬,賭博

ラーマーナマ

インドの進むべき道

ガンジー選集

ガンジーからミラベンへの書簡集

基礎教育について

ガンジー書簡集 Ⅰ-Ⅱ

 

 

ラスキン

「この最後の者にも」

その真髄

  

M.K.ガンジー

グジュラート語からの翻訳

英語への訳者:バルジ ゴビンジ デサイ

 

 

ナバジバン出版

アーメダバード 14

 

初版 5000部

第二版 5000部 1956年

第三刷 10,000部 1958年

第四刷 10,000部 1962年

 

40 ナヤパイサ

 

著作権 ナバジバン財団 1956年

 

印刷出版 ジバンジ D デサイ

ナバジバン出版 アーメダバード 14

 

 

 

英語への訳者まえがき

 

ガンジーは,ヨハネスブルグからダーバンまでの24時間の汽車移動の中で,ラスキンの「この最後の者にも」を初めて読んだ。その印象を,自叙伝の中の「ある本の天啓」と題する章(第4部第18章)で,次のように述べている。

「夕方になって汽車はダーバンについた。その夜は一睡もできなかった。その本の思想に基づいて自分の生き方を変えようと,私は決意した。・・・そして,後にその本を『サルボダヤ』という題で,グジュラート語に翻訳した。」

本書は,そのグジュラート語版『サルボダヤ』の英訳である。ラスキンの原著の言い回しは,できる限り再現されている。

先に触れた章の終わりで,ガンジーは,「この最後の者にも」から読み取った思想を,次のように要約している。

  • 個人の幸福は,全員の幸福の中にある。
  • 法律家の仕事は,床屋の仕事と同価値であり,人は誰も,その仕事によって生計を維持する権利を持つ。
  • 土を耕す農民や,物を作り出す職人のような肉体労働者の生活は,価値ある生き方である。

ラスキンの原著の四つの章の真髄を述べた部分については,付け加えることはない。しかし,ガンジー自身の言による最後の「結論」の部分は,それが1915年にガンジーがインドに帰国するよりはるか以前に書かれていたことを考えると,預言的であり,将来ともインドの指針というべきである。この冊子の最後の一節はまさにかけがえのない珠玉というにふさわしい。

V.G.D

インド暦2007年バードラ月5日

 

 

第二版のまえがき

 

私の友人であるシュリ・ヴェリール・エルウィンが,初版を読んでいくつかの語句の差し替えを助言してくれた。第二版ではそれらを差し替えた。

V.G.D

インド暦2012年バサンタパンチャミの日に

 

 

読者へ

 

私の著作の熱心な読者と,私の著作に関心を持っている人々に,伝えておきたいことがあります。それは,私はいつも首尾一貫していることを目指してはいないということです。真理を追い求める過程で,私は何度もそれまでの考えを捨て,多くの新しいことを学びました。年を取りましたが,内面の成長が止まってしまったとか,肉体の衰えとともに成長が止まるだろうと,感じたことがありません。私にとって一番大事なことは,その時,その時,真理(=神)の声にしたがうことです。ですから,もし私が同じことについて前と違うことを書いているのを見つけたら,そして,私の判断を信用していただけるなら,どうか後の方を選んでください。

M.K. ガンジー

ハリジャン 第一巻 №12,1993年4月29日,2頁

 

 

              目   次

 

序章 ・・・・・・・・・・・・・・・  1頁

第Ⅰ章 真理の根幹 ・・・・・・・・  5頁

第Ⅱ章 富の本質 ・・・・・・・・  28頁

第Ⅲ章 真実の経済学 ・・・・・・  47頁

第Ⅳ章 富者と貧者の対立  ・・・・  58頁

結論 ・・・・

 

 

                序  章

 

欧米の人々は一般的に,人の責務はひとえに人類の大多数の幸福を増進することにある,そして幸福とは,もっぱら肉体的幸福と経済的繁栄を意味すると考えているようです。そのような幸福が達成されるのなら,道徳律が破られても大した問題ではない,人類の大多数の幸福が増進されるなら,たとえ少数者が犠牲になっても,何の差し支えもないというのです。

このような考え方がどんな結果をもたらしたか,それは欧米の現状を見れば明らかです。道徳律を無視して肉体的・経済的幸福をひたすら追求することは,神の法則に反しています。

欧米の幾人かの賢者も,このことを明らかにしています。その一人ジョン・ラスキンは,著書「この最後の者にも」で,人は道徳律にしたがってこそ真の幸福を得られる,と述べています。私たちインド人は,今や何ごとにおいても欧米の真似をしがちです。欧米の良いところを真似ることは必要ですが,欧米のやり方がしばしばまちがっていることも確かなことです。悪いものはすべて遠ざけなければなりません。ここ南アフリカのインド人は,大変困難な状況に置かれています。インド人はお金を得ようとインド洋を渡りました。簡単にお金を手に入れようとして道徳律を見失い,神は私たちがすることすべてを裁かれるということを忘れてしまいました。利己心は人のエネルギーのすべてを吸いつくし,善悪の区別をつける力さえ奪ってしまいます。そのために,インド人は,遠く海を渡ってきたのに何も得られず,かえって非常に多くのものを失ってしまいました。これでは,はるばる海を渡ってきた意味がありません。

世界中のどの宗教も,道徳律を守ることの大切さを教えています。特定の宗教を持ち出さなくても,道徳律にしたがって生きるべきだということは,良識のある人なら誰でも知っていることです。以下の頁でラスキンが説くように,道徳律を守ってこそ,私たちは幸福になれるのです。

ソクラテスは,「プラトンの弁明」 において,人の義務が何であるかを語っています。ソクラテスは自分が語った言葉どおりに生きました。私には,ラスキンの「この最後の者にも」は,ソクラテスの思想をさらに発展させたものに感じられます。ラスキンは同書で,ソクラテスの思想を現実の行動に移そうとするなら,人生の様々な局面で実際にどのように振舞うべきかを教えてくれています。しかし,その全部を翻訳することは,インディアン・オピニオン紙の読者にとってとくに役立つものではないでしょう。以下は,「この最後の者にも」の忠実な翻訳ではなく,その真髄を要約したものです。題名も文字どおりの翻訳ではなく,ラスキンが言おうとした趣旨を汲んで,サルボダヤ(全員の幸福)と変えています。

                                    続く 

 

 

 

 

 

 

 

1888年10月27日[1](土)~11月23日(金)

マズムドル氏,アブドルマジド氏と3人でヴィクトリアホテルに着いた。アブドルマジド氏が,ホテルのポーターに威厳のある態度で,私たちが乗ってきた馬車の馭者に適切な料金を払うように言いつけた。アブドルマジド氏はとても自尊心の強い人物だが,彼の身に着けていた服装はポーターより劣っていた。手荷物をそのままにして,まるでロンドンに長く滞在していたような振りをしてホテルに足を踏み入れた。私は,ホテルの豪華さに目がくらんでしまった。これまでの人生で一度も見たことがない立派な装飾だった。私はただ,黙って二人の後ろについていくだけだった。そこら中に電灯が輝いていた。部屋に通された。マジド氏は直ぐについて行った。支配人はマジド氏に,3階の部屋を希望するかどうかを訊いた。室料を尋ねるのは沽券にかかわると考えたマジド氏は,「イエス」と即答した。支配人は直ぐに1泊6シリングの請求書を私たちに渡すと,ボーイを呼んで案内させた。私は,このやり取りを内心で一人楽しんでいた。さて,エレベーターと言うもので3階に上がることになった。それまでエレベーターというものを経験したことがなかった。ボーイは何かドアのロックのようなものをサッと触った。後で知ったが,それはエレベーターを呼ぶためのベルだった。ドアが開けられたので,中でしばらく待っている部屋かと思ったら,それがエレベーターで,そのまま3階に運ばれた。

 

[1] 前註参照

1888年9月4日

 

さて,航海について書いておこう。船が錨を揚げたのは午後5時ころだった。船旅には不安があったが,心配したことはなかった。航海の間,一度も船酔いにもならなかったし,吐くこともなかった。汽船で旅をするのは,人生で初めての経験だった。私は,航海を存分に楽しんだ。6時ころに夕食の鐘が鳴った。テーブルにつくよう船員に促された。しかし,私は食堂には行かず,持参した食料を食べて済ませた。最初の晩マズムダル氏が私に見せた態度が大らかだったので,大変驚いた。まるで長年の知り合いのように私に話しかけてくれた。彼は黒のコートを持参していなかった。それで,私は,彼が夕食に行く時に,自分のコートを貸してあげ,彼はそれをまとってテーブルに着いた。その晩以来,私は彼が好きになった。彼は,私を信用して自分のカギの束を私に預けた。私は彼のことを自分の兄のように思うようになった。船客の一人にアデンまで行くというマラタ人の医師がいた。この人も,いい人のように見えた。二日間,私は持参したお菓子と果物とで生活した。三日目に,マズムダル氏が年少の船員との間で,私たちのために料理をしてくれるよう交渉し,成功した。私にはそのような交渉を成立させる能力はなかった。私たちは大部屋の船客だったが,一等船室に乗っているモスリムの船客が一人いた。彼を含め3人で,夕食を楽しんだ。

船そのもののことも書いておこう。私はこの船のつくりがとてもお気に入りだった。船室でも,大部屋でも,座っていると船に乗っていることを忘れてしまう。動いていることを全く感じないことすらある。船員たちの動きは機敏で,賞賛に値した。船にはいくつかの楽器が備え付けられていた。私は時々ピアノを弾いた。トランプ,チェス,チェッカーゲームも用意されていた。ヨーロッパ人の船客たちは,夜になるといつもゲームをして遊んでいた。甲板は船客にとって最大の休息場所だった。船室にずっといると退屈してしまう。甲板に出ると新鮮な空気が吸えるので生き返る。勇気があってその気にさえなれば,他の船客と話をして友達になれる。

天気が良い日の甲板からの景色は素晴らしい。ある月夜に海を見ていた時のことだ。月が海面に写って反射していた。波が動くと,まるで月自身があちらこちらに動いているように見えた。月のない晴れた夜,海面にたくさんの星が反射していた。船の周りが美しく光っているように見えた。最初私はそれが何なのか分からなかった。無数のダイヤモンドのように見えた。でも,ダイヤモンドは水に浮かないことは分かっていた。夜にだけ現れる虫が光っているのかとも思った。そんなことを考えながら空を見上げたら,瞬時に悟った。夜空の星が海面に反射していたのだ。自分の妄想に自然と笑えた。海面に写った星の様子は,まるで花火のようでもあった。バンガローのデッキに立って目の前で打ち上げられる花火を見ていると想像したまえ。そんな感じだ。私は何度もこの風景を楽しんだ。

船の上で,私は5日間ほど,他の乗船客としゃべらないこともあった。毎朝8時に起きて,歯を磨き,トイレを済ませ,沐浴をした。イギリス式の水洗便器には驚かされた。水ではなく,紙で体をきれいにしなければならなかった。

約5日間の船旅を楽しんだ後,船はアデンに近づいた。そこまではひとかけらの陸地も山も見たことがなかった。乗船客は誰もかれも単調な航海に退屈し,陸地を見たがっていた。6日目の朝,とうとう陸地が見えた。皆嬉しそうで,陽気だった。午前11時,船はアデン港に錨をおろした。小舟に乗った子供たちが船に近寄ってきた。子供たちの泳ぎの技術は素晴らしかった。ヨーロッパ人の何人かが海にコインを投げた。子供たちはそれを追いかけて深いところまで潜り,見つけて上がってきた。自分もあんなに潜れたらいいのにと思った。見ていて飽きない風景だった。

30分ほど,この風景を楽しんだ後,アデンの街を見物に出かけることにした。それまで,インドから乗船した私たちはといえば,コイン1枚も投げずに,子供たちがコインを上手に見つけてくるのをただ見ているだけだった。ヨーロッパ人の金銭感覚を知るようになったのは,この日が最初だった。

私たちは3人で2ルピーを払って小舟を雇った。海岸までの距離は1マイルもなかった。15分で上陸できた。海岸からは馬車を雇った。アデンでのたった一つの見所だという浄水場に行きたかったが,運悪く時間が足りなくなった。それで,アデンの街を見物した。いい街だった。建物はきちんとしていた。たいていは商店だった。建物の構造は,ラジコットの街の平屋建ての建物,それも役所のものと似通っていた。街では泉とかきれいな水が流れている場所を見つけることはできなかった。溜池だけがきれいな水を手に入れることのできる場所のようだった。照りつける太陽の暑さは相当のもので,ぐっしょり汗をかいてしまった。アデンは紅海からそう遠くないからだろう。木が一本も生えておらず,緑の植物が何も見えなかったことに私は驚いた。ラバやロバが人々の移動手段だった。私たちも望めばラバを雇うことはできた。街は丘の上にあった。船に戻った時に船の船頭に聞いた話では,あのコインひろいの子供たちは時折怪我をするのだそうだ。ある子は脚を,ある子は腕をサメに噛まれるからだという。それでも貧しい子供たちは,私たちならとても怖くて座っておれないような小さな船に一人乗って,集ってくるのだ。馬車の代金は一人1ルピーだった。

船は正午に錨をあげ,アデンの港を後にした。しかし,この日以降はずっと陸地が見えた。夕方になって,船は紅海に入った。途端に暑さを感じるようになった。私には,それはボンベイで言われていたような,焦げるような熱さというほどではなかった。とはいうものの,船室に留まっていることは不可能だった。直射日光も耐え難かった。船室には,誰であっても頼まれても2,3分もじっとしておれなかっただろう。しかし,甲板に出れば,いつも強い風が吹いていて新鮮な空気が吸えるから,それだけで気持ちがいい。私はそれで甲板にいることにした。たいていの乗船客は甲板で眠った。私もそうした。朝,陽が昇るともう耐えられない熱さになった。しかし,甲板にいればいつも安全だった。このようなひどい暑さは3日続いた。4日目の夜に船はスエズ湾に入った。随分遠くから,スエズ湾に浮かぶ船の灯りが見えた。紅海はある場所では広いが,ある場所では極端に狭くなっている。狭いところでは船の両側に陸地が見えた位だ。スエズ運河に入る前に船は地獄の門と呼ばれる場所を通過した。そこは両岸が丘になっている狭い水路だ。多くの船がそこで沈没したので地獄の門と呼ばれるようになったのだ。紅海で朽ち果てている一隻の船を見た。船はスエズの港に半時間位停泊した。だれかが,さあこれから寒くなるぞと言った。アデンを出るときには,ここから先は酒なしではおられないといった人もいた。しかし,そんなことはなかった。その頃には乗客仲間と少しは話をするようになっていたが,その何人かが,アデンから先では肉を食べないと体が持たないと言っていた。これもそんなことはなかった。船首部分に燈された灯りで,私は生れて初めて電気の光を見た。それは月明かりのようだった。その明りで,船首部分はとてもきれいに見えた。・・・・スエズ運河は,私の理解を超える工事だ。素晴らしいとしか言いようがない。こんなことを考え付き,実現した人物の才能にただ脱帽する。どのようにしてこんな工事を完成させることができたのだろう。彼は自然と格闘したというべきだろう。二つの海をつなげるのは,容易なことではない。運河を通過できる船は1隻に限られる。熟練した水先案内人が先導する。船はゆっくりとした速度で進む。乗客は船が動いているのを感じないくらいだ。運河の水はひどく濁っている。深さがどれくらいだったかは忘れてしまった。幅はラムナーのアジ河位だった。両岸を通る人々がよく見える。運河印ペンの土地は痩せていた。運河はフランスの物だ。イスマイリアの方から別の水先案内人がやってきた。運河を通過する船から,フランスが料金を徴収している。その収入は莫大なものに違いない。船首の電灯とは別に,船の両側の約20フィートの距離の所に灯りが並んでいた。そちらの灯りの色はさまざまだった。船はその明りの列の間を進んでいった。運河を通過するのに約24時間かかった。風景の美しさは表現のしようもないくらいだ。その美しさは実際に見てみなければ分からない。運河の終点はポートサイドだ。ポートサイドはスエズ運河で成り立っているといっていい。私たちの船は夕方にポートサイドに錨をおろした。船はそこに1時間停泊しただけだったが,街を見るにはそれで十分だった。ここから通貨はイギリスの通貨に変わった。インドの通貨はここでは何の役にも立たなかった。上陸するのにボートを雇ったが一隻について6ペンスかかった。1ペンスは大体1アナに相当する。ポートサイドの建物はフランス風だった。フランス風の暮らし方を垣間見ることができた。コーヒーレストランがあった。最初見た時には劇場かと思った。しかし,実際にはただのコーヒーレストランだった。店の半分ではコーヒー,ソーダ,紅茶,その他の飲み物が何でも飲めた。もう半分では音楽を聴けるようになっていた。弦楽器を奏でている女性たちがいた。ボムベイでは1ペンス以下で手に入るレモネードと呼ばれる飲み物は,ここでは1本12ペンスした。音楽を聴くのは無料だとのことだったが,実際にはそうではなかった。演奏が終わるとすぐに女性が一人ハンカチで覆ったお皿を持って一人一人のお客のところにやってくる。それはまさにお金集めのためだし,実際誰もが何がしかを差し出さなければいけない決まりになっている。カフェに入っていた私たちは,6ペンスを皿に入れた。ポートサイドは金持ちの住む場所だ。男も女もずる賢い。通訳がガイドをするといって付いて回る。きっぱりと断らないといけない。ポートサイドの街は,ラジコットのちゃんとした街ほどの大きさもない。船は午後7時にポートサイドを離れた。

乗客の中でジェフレイズ氏は私にとても親切にしてくれた。いつも同じテーブルに座るように声をかけてくれ,そこに食べ物を用意してくれた。しかし,私は断った。彼は,ブリンディシを過ぎると寒くなると言っていたが,そうでもなかった。そのブリンディシに着いたのは3日後だった。船が海岸に横付けになったので,梯子を使って上陸した。すでに暗くなっていたので,街の様子はあまりよくわからなかった。誰もがイタリア語を話していた。道路には石が敷き詰められていた。小さな通りには坂があった。そこも石が敷き詰められていた。灯りはガス灯だった。ブリンディシ駅を見たが,BB&CI鉄道の駅のように美しくはなかった。ただ,列車はインドよりずっと大きかった。交通量は多かった。ブリンディシに上陸すると,男が近寄ってきて,君が有色人種であるなら,「旦那,14の可愛い娘がいますよ。付いて来れば,案内しますぜ,旦那。なーに,そんなに高くはないです,旦那」と持ちかけてくる。初めは戸惑うだろう。しかし,落ち着いて,きっぱりとこう言えばいい,「私には興味のない話だ。どこかに行ってしまえ。」それで安全だ。何か問題が生じたら,すぐに近くの警官を呼ぶか,どこにでもある大きな建物に駆け込めばいい。ただ,その建物にかけられている看板を見て,公衆にの出入りが許されているものかどうかだけは確かめる必要がある。そうすれば危ないことはない。それくらいのことは直ぐにできる。そこにいるポーターに,困っていることを話せばいい。どうすればいいかすぐに教えてくれる。もし,勇気があれば,ポーターに町の長官のところに連れて行ってもらい,一部始終を報告するのもいいだろう。なぜ大きな建物かというと,大きな建物はトーマスクックかヘンリーキング,あるいは同じような会社の建物に違いないからだ。そこでなら助けを得ることができる。そんな時はケチってはいけない。ポーターにいくらか払った方がいい。ただし,それをするのは,これは危ないと感じたときだけにしたほうがいい。しかし,頼りにできる大きな建物は海岸沿いにしかない。海岸から遠く離れた場所にいるときは,警官を探すしかない。警官が見つからなければ,後は自分の良心に頼るしかない。私たちはブリンディシを朝早くに出航した。

三日後にマルタ島に着いた。船は午後2時に錨をおろした。4時間近く停泊するとのことだった。アブドルマジド氏が私たちと一緒に行きたいと申し出た。何があったのか,いくら待っていても彼はやってこなかった。私は待ちきれなくなっテ,ジリジリしていた。マズムダル氏が,「マジドさんを置いて,我々だけで出かけましょう。」と口にした。私は,「お考えに従います。異存はありません。」と答えた。それで話が決まって,私たち二人だけで出発した。戻ってきた時,アブドルマジド氏に会ったら,先に行かれてしまってとってもがっかりしたと言われた。これに対し,マズムダル氏が,「ガンジーさんが待ちきれなくて,あなたを待たずに出かけましょうと言い出したんです。」と答えた。そんなことを言われて,私は随分気分が悪かった。しかし,その場で濡れ衣を晴らすことはせず,黙っていることにした。私が一言,アブドルマジド氏に,「マズムドル氏が本当にあなたを待ちたければ,私の言うとおりにしなければよかったのに。」と言いさえすれば,濡れ衣はきれいに晴れただろうことは分かっていた。それで十分,マズムドル氏に従う以外,私には方法がなかったことが伝わっただろうと思う。でも,その時は,そうする気はさらさらなかった。その日以来,私はマズムダル氏に対する評価を下げ,敬う気持ちが亡くなった。このこと以外にも二,三のことが重なったので,日々彼に対する好意は減少していった。

マルタ島は興味の尽きない場所だ。見るものに事欠かない。残念なことに,私たちに許された時間は十分ではなかった。前にも書いたように,マズムドル氏と私は二人連れだって上陸した。そこでとんでもない悪い男につかまってしまった。随分損をした。たくさんの小舟に乗せられ,街を見て回るのに馬車を雇った。悪い男は私たちについて来た。半時間位馬車に乗って,サンジュアン教会に着いた。教会は美しい建築物だった。そこでは,著名人たちの骨格を見学した。どれもずいぶん古い時代の物だった。教会を案内してくれた人に1シリングを払った。教会の向かい側にサンジュアンの像が立っていた。そこから街に向かった。道路は舗装されていた。舗装した道路の両側には歩道が設けられていた。島全体がとても美しかった。素晴らしい建物がいくつもあった。私たちはアルモウリーホールを見学しに行った。ホールはきれいに飾られていた。そこでとても古い絵を何枚か見た。よく見ると絵ではなく,刺繍だった。初めて見る者には,そうと説明されなければまさに絵に見える作品だった。ホールの中には,古い時代の戦士たちが使った武器が展示されていた。どれも見る価値のあるものだった。記録を残していないので,そのすべてを思い出すことはできない。30ポンドもある兜が展示されていた。ナポレオンボナパルトの馬車は華麗だった。ホールを案内してくれた者に6ペニーのチップを渡して,帰途に就いた。教会とホールを見学するときには,敬意を表するために帽子を取らなければならなかった。それから,男の店に立ち寄った。彼は我々に何か買わせようと頑張っていたが,買うそぶりは見せなかった。最後に,マズムダル氏がマルタ島の景色の絵を2シリング6ペンスで買った。男は通訳をつけてくれて,自分自身は付いてこなかった。その通訳は大変いい人物だった。彼は私たちをオレンジ公園まで馬車に乗せてくれた。公園を見物した。私は公園を全然気に入らなかった。私には,ラジコットの公立公園の方がずっと好きだ。見る価値のあったものと言えば,小さな水槽の中で泳いでいた金色や赤色の魚だけだった。それから又町の戻って,ホテルに入った。マズムドル氏はジャガイモと紅茶を注文した。そこへ行く途中で,あるインド人に出会った。マズムドル氏は気さくな人物だったので,そのインド人に声をかけた。話をしているうちに,そのインド人の兄がマルタ島で店をしていることが分かった。それで,直ぐにその店を訪ねることにした。マズムドル氏は店主と会話を楽しんだ。私たちはその店でいくつかの物を買い,2時間過ごした。そのため,マルタ島を見る時間が残り少なくなってしまった。私たちはもう一つ教会を見学した。その教会も非常に美しく,見る価値があった。オペラハウスを見たかったが,時間が無くなった。私たちは出会ったインド人と別れた。彼は別れ際にマズムドル氏に自分の名刺をわたして,ロンドンにいる兄弟に渡すことを頼んだ。帰り道,悪い男がまたやってきて,午後6時に付いてきた。海岸に着いたので,悪い男と,よい通訳と,馬車の魚産業廃棄物にそれぞれ支払いをした。小船の船頭とは料金のことでもめた。結局,買ったのは船頭だった。この島では思い切り騙された。

クライド号は午後7時に出航した。3日間の航海の後,ジブラルタルの港に午後12時に到着した。船はその夜はずっと停泊していた。私は,ジブラルタルの街を見る気満々だったので,朝早く起きた。そして,マズムドル氏を起こして,私と一緒にジブラルタルの街を見に出かけるかどうか尋ねた。彼はいっしょに行くと答えた。マジド氏のところへ行って,彼も起こした。そして3人で上陸した。出航まで残された時間は半時間だけだった。まだ夜明けの時刻だったので,店はみんな閉まっていた。ジブラルタルは非課税の港なので,たばこがとても安いと聞いていた。街は大きな岩の上に建てられていた。一番上には要塞があるのだが,時間がなくてそこまで行くことはできなかった。家々は列に並んで建てられていた。1列目から2列目に行くには,階段を何段か登らなくてはならなかった。私は,その作りが大変気に入った。街のつくりは美しかった。道路は舗装されていた。時間がなかったので,早々に戻らなければならなかった。船は午前8時半に錨を上げた。

3日後の午前11時,プリマス港に到着した。ようやく寒くなった。乗船客の誰もが,肉を食べてお酒を飲まなくては死んでしまうと言っていたが,私たちは生きていた。寒さは相当なものだった。嵐が来るだろうという人がいたが,それはなかった。私は嵐を体験できると期待していたが,外れてしまった。夜なのでプリマスの街は何も見えなかった。深い霧が立ち込めていた。やっと,船はロンドンに向けて出航した。24時間たたないうちにロンドンに到着した。1888年10月27日[1]午後4時,私たちは,ティルベリー駅を経由してヴィクトリアホテルに到着した。

 

[1] 資料には「28日」とあるが,その日は日曜日なので,明らかな誤記である。自叙伝の第1部第8章で,ガンジーはロンドンには土曜日に着いたとしているので,そうだとすると10月27日ということになる。

1.  告白[1]

〔1884年〕

私はそのことを紙片に書いて父に手渡した。そこでは,自分が犯した罪を告白しただけでなく,罰を加えてくれるように請い,また父がこのことで自身を責めないように願って締めくくっていた。私は,二度と人の物を盗まないことも誓っていた[2]

自叙伝 第1部 第8章

 

2.  ラジコットのアルフレッド高校でのスピ-チ[3]

1888年7月4日

僕は,君たちのうちから,僕に続いてイギリスに渡り,帰国してから,インドの大改革に真剣に取り組む仲間が出てくることを願っています。

[グジュラート語からの翻訳]

カチアワールタイムズ,1888年12月7日

3.  ラクシュミダス・ガンジーへの手紙

ロンドンにて

1888年11月9日金曜日

尊敬する兄弟へ

ここ2,3週間,貴兄からなんのたよりもないことを残念に思います。多分,私からの便りが来なかったからなのでしょう。でもそれは,船がロンドンにつく前に手紙を投函することは不可能だったからなのです。私からの便りがないからという理由で手紙を書いてくれなかったのなら,まったく驚きです。私は家から遠く離れた土地にいるのですから,手紙で会うしか方法がないのですよ。もし,手紙が届かなかったら,私がどれだけ心配するか。どうか,まちがいなく毎週1枚葉書をください。住所を書き残して来なかったのだったら何も心配はしません。貴兄は2回便りをくれただけで,その後は何の便りもなくなったので悲しく思っているのです。この前の火曜日にインナーテンプルの入学手続きをしました。詳しくは,来週貴兄からの手紙を読んでから書くことにします。当地の寒さは,ここのところ厳しいものですが,そんなに長続きするものではなさそうです。寒くても,肉やお酒の力を借りずにやっています。それで,心は喜びと感謝で満たされています。健康状態も良好です。お母さんとお義姉さんによろしく伝えてください。

マハトマ第1巻;グジュラート語のコピーも同内容

 

4.  ロンドン日記[4]

ロンドンにて

1888年11月12日

私はなぜロンドンまで来る気になったのだろうか。すべては4月が終わるころに始まった。ロンドンに来て勉強するという目的を具体的に持つより前に,ロンドンがどういう所かこの目で見てみたいという,人には言えない好奇心が先にあった。バブナガールの大学に通っていた時,ジャイシャンカール・ブッフと話したことがあった。その時彼は私に,ジュナガー州にロンドンに行く奨学金を申し込むよう助言してくれた。当時,私はソラート州に住んでいた。その日,彼にどんな返事をしたのか,はっきりとは覚えていない。多分,奨学金なんかもらえないと感じていたように思う。でも,その日以来,かの地に行ってみたいと思うようになった。そして,その目的にたどり着く方法を探し始めた。

1888年4月13日,私は休暇をラジコットで過ごすためにバブナガールを後にした。15日間の休暇を楽しんだ後,私は兄と一緒にパトワリ氏に会いに出かけた。その帰り道,兄は私に,「マブジ・ジョシに会ってみたらどうだろう。」と言った。それで,出かけた。マブジ・ジョシは私に,いつものように,どうしてるかと聞いた。それから,バブナガールでの私の勉強についていくつかの質問をした。私は,一年目は試験に通りそうにないということを率直に話した。そして,コースはとても難しいことが分かった,と付け加えた。これを聞いて彼は,私の兄に弁護士資格を取らせるためにできるだけ早くロンドンに行かせるようにと助言した。彼は,かかる費用はたったの5000ルピーだと言った。「この子にはウラッドダルを持たせればいい。それを自分で料理して食べる分には,宗教上のことでとやかく言われることはないだろう。ただ,留学のことは誰にも言わないように。奨学金を申し込まないといかんな。ジュナガッドとポールバンダル州に申し込むように。わしの息子のケバルラム弁護士にも会うといい。もしどこからも金銭的な援助が得られず,君もお金がないのなら,家具を処分してお金を作ることだ。どうにかしてモハンダスをロンドンに留学させるんだ。それしかお前の病気の父親の名誉を保つ方法はあるまい。」私の家族はみんなマブジ・ジョシの言うことには絶大な信頼を寄せていた。生まれつきとても信じやすい性格の兄は,私をロンドンに留学させると彼に約束した。今度は私が頑張る番だった。

私の留学のことは秘密にしておくと約束したその日のうちに,兄はクシャルバイにしゃべってしまった。クシャルバイは,私が宗教の戒律を守れるのであれば,留学には反対しないといった。メジバイにも同じ日に話が伝わった。彼は賛成してくれて,5000ルピーの援助を申し出てくれた。私は何となく彼の言葉を信じた。しかし,愛する母に留学の計画が打ち明けられた時,母は私がメジバイの申し出を易々と信じていることをたしなめ,留学ができることになってもメジバイから援助はもらえないと思っておきなさいと言った。母は留学そのものが実現しないと思っていた。

その日,私はケバルラムバイの所へ行くことになっていた。彼に会い,話をしたが,いい話ではなかった。彼は留学の計画には大賛成だったが,「ロンドンでは最低10000ルピーは必要だろうよ。」と言った。私は彼の言に打ちのめされた。それから彼は追い打ちをかけた。「君が宗教を信じているとしても,その宗教の戒律は全部脇に置いておかなければならないだろう。肉を食べたり,酒を飲んだりしなくちゃいけない。それなしでは生きていけないだろう。お金を使えば使っただけ賢くなれるんだ。これはとっても大切なことだから,君に率直に話しておくんだ。悪く思わないでくれよ。ま,正直君はまだ若い。ロンドンには誘惑があふれている。君がその誘惑に囚われても不思議はない。」彼の話を聞いて私はいくらか意気阻喪した。しかし私は,いったん決心したことを容易く放棄するような人間ではない。ケバルラムバイは,自説を説明するためにグラム・モハメッド・ムンシ氏の例を挙げた。私はケバルラムバイに,何かの方法で,奨学金を得る手伝いをしてもらえないか尋ねた。彼の答はノーだった。それ以外のことなら何でも喜んでしてあげようと言ってくれた。私は,一部始終を兄に報告した。

それから私は,母からロンドン留学の許可をもらう仕事を任せられた。その仕事は私にとってそれほど難しいことではないように思えた。一日か二日後,私と兄は,もう一度ケバルラム氏に会いに行った。大変忙しそうだったが,彼は会ってくれた。そして,一日か二日前とほとんど同じ内容の話をした。彼は兄に,私をポールバンダルに行かせるよう助言した。兄は承諾し,私たちは家に戻った。私は母に,その話を冗談めかして伝えた。しかし,冗談はすぐに現実になった。ポールバンダルに出発する日が決まった。

二度か三度出発の準備をしたが,その都度問題が起きて行けなかった。一度は,ザバルチャンドと行こうとしたが,出発の1時間前に大変なことが持ち上がった。私は友人の友人シェイク・メタブと喧嘩が絶えなかった。出発の日,私は彼とのけんかのことで頭の中がいっぱいだった。その夜,彼の家でパーティーがあったが,私はあまり楽しめなかった。夜の10時半ころにパーティーは終わり,私たちはメジバイとラミに会いに行った。その時,私の頭はロンドンへの思いとシェイク・メタブへの思いが交錯しわけのわからない混乱状態にあった。ボーとして歩いたため無意識のうちに馬車に接触してしまった。怪我をしたのに誰の助けも受けず歩き続けた。相当ふらふらしていたと思う。メジバイの家にたどり着いたところで,石に躓きまた怪我をした。そして意識を失った。その後何が起きたのかは知らない。ただ,友人たちから,二,三歩歩いから地面にべたっと倒れ,5分間ほど意識がなかったと聞かされた。彼らは私が死んだと思ったという。幸運にも私が倒れた場所はとても柔らかだった。私は意識を取り戻し,友人たちは皆大喜びしてくれた。使いが出され,母が駆けつけた。私は大丈夫だと言い張ったが,母が私の様子を見てとても心配したので,出発を遅らせた。皆は私が行くのを止めさせよとしていたが,腹の座った愛する母が,私の出発を許してくれたことを後で知った。ただ,母は周囲の悪口を恐れていた。そんなこんなの困難があって,数日後やっと,私はラジコットを後にしてポールバンダルに向かうことを許された。道中でもいくつかの困難に出会った。

とうとう私はポールバンダルに着いた。皆喜んでくれた。ラルバイとカルサンダスがカディ橋まで来て,私を家に連れて行ってくれた。ポールバンダルでしなければならなかったことは,第一に叔父の同意を得ること,第二にレリー氏に奨学金の申請をすること,第三に,奨学金を断られたときには,パルマナンドバイに資金援助を頼むことだった。私はまず叔父に会って,ロンドン留学に賛成してくれるかと持ちかけた。予想していたとおり,叔父は私に,ロンドン留学のどこがいいのか詳しい説明をするよう,当然の質問をした。私は一生懸命に答えた。次に叔父は,「今どきの若い者は皆ロンドンに行きたがる。だが,わし自身,それは好きじゃない。しかしじゃ,ま,そのことはゆっくり考えることにしよう。」この答えに,私はがっかりしなかった。様々な時に見せる叔父の様子から,彼が内心では私の計画を気に入っていることが分かったからである。

運悪く,レリー氏はポールバンダルにはいなかった。不運は一人ではやってこないというのは本当だった。レリー氏は地方から戻ってくると,次の仕事ですぐ又出かけてしまった。叔父は,次の日曜日まで待っているように助言してくれた。もしそれまでに戻ってこないなら,出かけている先まで送り届けてやるとも言ってくれた。嬉しいことに,レリー氏は日曜日に戻ってきた。さっそく月曜日に会ってもらう約束が取れ,面接が実現した。それは私の人生で初めて,イギリス人の面接を受けた経験だった。以前ならイギリス人の面接を受けることなど決してしなかっただろう。でも,ロンドン留学への思いが私を勇敢にしてくれた。私たちはグジュラート語で短い会話をしただけだった。彼は急いでいた。会ったのも,彼がちょうどバンガローの2階の階段を上っているときだった。「ポールバンダル州は大変貧しいので,君に奨学金を出すことはできない。しかし,君がまずインドで卒業して,それからもう一度面接を受けに来たら,その時に奨学金を出せるかどうか検討しよう。」それが彼の答だった。私はがっかりした。そんな答えをもらうなんて予想もしていなかった。

こうなったらパルマナンドバイに頼んで5000ルピーを出してもらうしかなかった。彼は,私の叔父がロンドン行を承知したなら喜んでお金を出してあげようと言っていた。こちらの仕事のほうが難しそうだったが,叔父を説得するしかないと決心を固めた。叔父に会ったが,何かで忙しそうにしていた。「叔父さん,ロンドンに留学することをどう思っているか,本当の気持ちを教えてください。私がポールバンダルに来た一番の目的は,あなたの同意をいただくことなのです。」そう切り出すと,叔父はこう答えた。「わしは賛成できないな。わしが巡礼の旅に出かけようとしているのを知らないのか?そういう人間が,誰であれロンドンに行くのに賛成するなんてことは恥ずべきことだと思わないか。しかしな,君の母さんや兄さんが行かせたいというなら,それに反対するつもりは全くないがね。」そこで私は言った。「でも,叔父さんはご存じないかもしれないけれど,ロンドン行に反対されると,パルマナンドバイはお金を出してくれないんですよ。」私が言い終わると同時に,叔父は怒った口調で言った。「ほんとにそうかな?お前,あいつがそう言った理由を知らないのだろう。わしがロンドン行に賛成しっこないというのを知っているから,そんな言い方をしたんじゃ。ほんとのところは,あいつは初めからお金を出す気なんかなかった。あいつが出すというのを,わしが止めることはない。」叔父との会話はここまでだった。私は喜び勇んでパルマナンドバイのところに跳んで行き,叔父との会話の一部始終を彼に伝えた。聞き終わると彼もとても腹を立て,すぐに5000ルピーの援助を約束してくれた。その約束を聞いて天にも昇るほど嬉しかったが,もっと嬉しかったのは彼が自分の息子にかけて宣誓してくれたことだった。この日以降,私はロンドン留学が実現することを確信するようになった。それから数日ポールバンダルに滞在したが,そこにいればいるほどパルマナンドバイの約束の確かさを感じることができた。

私が不在中にラジコットで起きていたことに話を移そう。友人のシェク・メタブは大変悪知恵の働く人物というしかない。彼は,メジバイが私に5000ルピーの援助の約束をしたことを知っていた。そこで,メタブは5000ルピーが必要になった云々と自分で書いた私のサイン入りの手紙を作って,それをメジバイに見せ,約束のことを思い出させた。メジバイは手紙を本物だと思い込んだ。彼は大変見栄っ張りだったので,5000ルピーの援助をするということを固く約束してしまった。ラジコットに着くまで,私はこのことを知らされていなかった。

話をポールバンダルに戻そう。ラジコットに出発する日がやっと決まり,私は家族の一人一人に別れを告げ,兄のカールサンダスと,メジのけちんぼの権化のような父親と一緒に旅立った。ラジコットに行く前に,私はバッブナガールに行って,家具を売り払い,借家を解約した。それらのことをたった一日で終え,近所の皆にさよならを告げた。借家の親切な女主人も含め,皆涙で送ってくれた。私はあの人たちとアノプラムの親切を一生忘れてはいけないと思う。これらのことを済ませ,やっとラジコットに着いた。

私は,3年間インドを離れることになるので,出発前にワトソン大佐[5]に会わなければならなかった。大佐は,1988年6月19日にラジコットに赴任する予定だった。5月の初めにはラジコットに着いていた私にとって,それまでの期間は本当に長かった。でも,どうすることもできなかった。兄はワトソン大佐に大いに期待を持っていた。待っていた日々は本当につらかった。夜はよく眠れず夢にも悩まされた。私にロンドンへ行かないようにと忠告する人もいたし,行けと助言してくれる人もいた。私の母も時々は,行かないように口にしたし,不思議なことに兄も気が変わったことが一度や二度ではなかった。それで私は不安になっていた。ただ,誰もが,何かを始める前にそれを投げ出すべきでないということを知っていたので,結局それ以上は言わなかった。待っている間に,兄は私に,援助を約束してくれたメジバイの気持ちを確かめておくように言った。結果は,やはりがっかりするものだった。それ以来,彼はいつも私の敵に回るようになった。相手かまわず私のことを悪く言いまわった。でも私は,そんな彼の悪口を全く気にしないでやり過ごした。愛する母は,そのことで彼のことにひどく腹を立て,時々気分が悪くなった。しかし,そんな母を慰めることは私には簡単だった。私のために涙を流している大好きな,大好きな母を何とかして心の底から笑わせるのに成功したときは,本当にうれしい気持ちになった。ようやくワトソン大佐が着任し,会うことができた。彼は,「考えておこう。」と言ったが,彼からはその後何の援助もなかった。私がやっとの思いで手に入れた紹介状を持参したのを一瞥して,大佐は,これは10万ルピーの値打ちがあるといっていた。全くの笑い種だった。

出発の日が決まった。最初は8月4日だった。ところがとんでもないことが起きた。私のイギリス留学のことが新聞に出てしまったのだ。兄は,私の留学についていつも誰かに尋ねられていた。とうとう,兄までが私に出発をあきらめるよう言い出した。私は挫けなかった。すると,兄は州知事のH.H.に会って,私への金銭的援助を頼んでくれた。しかし,知事から援助は受けられなかった。その後,州知事とワトソン大佐に会見することになった。ワトソン大佐は1通の紹介状を書いてくれ,知事は1枚の写真をくれた。この会見の時,私は思い切りおべっかを使わざるを得ず,それがとても腹立たしかったことを書き留めておく。最も信頼し,愛する兄が作ってくれた機会でなかったなら,決してそんな真似はしなかっただろう。そんなこんなで,ついに8月10日になり,私は,兄,ショエイク・メタブ,ナツバイ,クシャルバイと一緒に出発した。

ラジコットを出発し,ボンベイに向かった。それは金曜日の夜だった。学校の友人たちが送別の言葉を贈ってくれた。それに謝辞を述べるために立ち上がった時,頭がくらくらした[6]。話すべきことの半分ほどのところで,震えだした。インドに帰国した時にはもう二度と同じ目にあいたくはない。先に進む前に書いておかなければならないことがある。その夜は,大勢の人が別れの言葉を述べるために来てくれた。ケバルラム,チャガンラル(パトワリ),ヴィラジャル,ハリシャンカル,アモラク,マネチャンド,ラティブ,ポパット,バンジ,キムジ,ラム時,ダモダル,メヒジ,ラムジ・カリダス,ナランジ,ランチョダス,マニラルといった方々がその中にいた。ジャタシャンカルとヴィシュヴァナトと他に何人かも来てくれていたかもしれない。最初に停まった駅はゴンダルだった。その駅で,バウ博士に会って,カプツルバイが汽車に乗り込み一緒に行くことになった。ナツバイはジェットプルまで同行した。ドラに着くとウスマンバイが会いに来てくれて,ワドワンまで一緒に行った。ドラでは,ナランダス,プランシャンカル,ナルベラム,アナンドライ,ヴィラジラルといった方々が見送りに来てくれた。

ボンベイを出港するのは21日の予定だった。しかし,ボンベイで待っていた困難は信じられないほどであった。私と同じカーストの仲間たちが,私を出発させまいと押し寄せた。ほとんど全部が私の留学に反対だった。とうとう兄のクシャルバイや,パトワリまでが,私に出発をあきらめるように説得した。私は彼らの言葉に耳を貸そうとはしなかった。ちょうどうまい具合に,それから何日も海が荒れ,船が出港できなくなった。その間に兄も他の人たちも,私の周りからいなくなった。1888年9月4日,私は突然ボンベイを出航することになった。この時は,ジャグモハンダス氏,ダモダルダス氏,ベチャルダス氏に大変お世話になった。シャマルジにももちろん深く感謝しているし,ランチョドラル[7]にはどれだけお世話になったか知れない。世話になったとか,それ以上のことをしていただいた。ジョグモハンダス氏,マンシャンカル,ベチャルダス,ナラヤンダス・パトワリ,ドワルカルダス,ポパルトラル,カシダス,ランチョドラル,モディ,タコル,ラビ・シャンカル,フェロデシャ,ラタンシャ,シャマルジ,その他数人が汽船「クライデ」まで見送りに来てくれた。パトワリとシャマルジは餞別に5ルピーずつ渡してくれた。モディは2ルピー,カシダスは1ルピー,ナランダスは2ルピー,他にも餞別をくれた人がいたが思い出せない。マンシャンカル氏は私に銀のネックレスをくれた。そうしたことが終わると,3年間の別離の挨拶をして帰って行った。この文章を終える前にぜひ書き記しておきたいことは,もし私以外の誰かが同じ立場にいたとしたら,その人物は決してイギリスを見ることはなかっただろうということだ。私が遭遇した困難は,イギリスを実際以上に素晴らしい土地に感じさせた。

 

 

[1] ガンジーは,15歳の時,兄の借金を返すために,兄の腕輪からごく少量の金を黙って削り取ったことがあった。そのことでガンジーはひどく悩み,とうとう父親に打ち明けることを決意した。この告白の紙片を読んで父親が何も言わずに涙を流すのを見て,彼は父が自分を許してくれたことを悟った。このできごとは,彼の心にいつまでも消えない記憶として残った。それは,アヒンサの力の実物教育だったと,彼は語っている。

この紙片の実物は残っていない。自叙伝でガンジー自身が語っているところによって,再現した。

[2] 「初期のマハトマガンジー」212頁によれば,そこに書かれていた文章の一節は,「だから,お父さん,あなたの前にいるあなたの息子は,今やどこにでもいる泥棒と変わりがないのです。」だったという。

[3] ガンジーは,弁護士資格を取るためにイギリスに留学するというので,ラジコットのアルフレッド高校で壮行会をしてもらった。自叙伝の第1部第11節で,この時のことを次のように書いている。「私は短い感謝の言葉をメモに書いて用意していた。それなのに,どもってしまってほとんど何も言えなかった。感謝のメモを読もうと立ち上がったとたんに,頭がくるくる回転し,全身が硬直してしまったのだ。」

[4] 甥であり,共働者でもあったシャガンラル・ガンジーが1909年に初めてロンドンに向かおうという時,ガンジーは彼に自分の「ロンドン日記」をプレゼントした。日記は約120頁の量だった。シャガンラル・ガンジーは,1920年になってその日記のオリジナルをマハデブ・デサイに託した。実は,そうする前に,シャガンラルは自分のノートに約20頁を書き写していた。書き写さなかった100頁は,何かについて書かれたものではなく,ガンジーが1888年から1891年にロンドンに滞在していた時の出来事メモのようなものだったという。日記のオリジナルは行方不明になっているため,シャガンラルの書き写したものをできるだけ忠実に掲載した。これを英語で書いた時,ガンジーは19歳だった。

[5] カチャワールの行政官。ラジコットに事務所があった。

[6] 1888年4月7日「アルフレッドハイスクールでの演説」参照

[7] ランチョドラル・パトワリは,文通を通じてガンジーときわめて親しくしていた人物である。パトワリの父親は,ガンジーのイギリス渡航費を援助した。

ガンジー全集

第一巻

 

(1884年~1896年6月)

 

第一巻への序言

 

ガンジーの生涯の最も早い時期をとり扱うこの第一巻が,編集者にとって一番の難関だった。ガンジーは後の,より活動的な人生に備えて外国にあったから,オリジナルの資料を手に入れるには,彼が学生時代を過ごしたイギリスや,主に弁護士として過ごした南アフリカで,収集作業をしなければならなかった。

われわれにとって幸運だったのは,この時期の資料をガンジー自身がインドに持ち帰っていたことだ。それらの資料は,カーボン紙で控えを残した通信,手紙の手書き原稿やメモ,タイプや印刷の請願書やパンフレット,投稿・請願・声明文を掲載している南アフリカの新聞の切り抜き,数冊の南アフリカに関するブルーブックである。ただ,ガンジーは自分の書いたものを全部残していたわけではない。ヒンドゥイズムの基本原理について彼が書き溜めた文書について,「南アフリカにおけるサッチャグラハ」(1950年,本書242頁)の中で彼はこう書いている - 「その類のものはこれまでに捨ててしまったり,焼いたりした。そのことを悔やんではいない。何でもみんな持っていようとすれば,身動きが取れないし,お金がかかる。書棚や箱に囲まれての暮らしは,質素な生活の誓いを立てた者にはそぐわないことだったろう。」

研究調査助手たちは,ロンドンや南アフリカで,できる限りの公私の記録を収集してきた。それらの記録が,ガンジー自身が南アフリカから持ち帰っていた資料を補完してくれた。

南アフリカの資料には,ガンジーがインド人社会のために書いた請願書や覚書が含まれている。それらに署名しているのはガンジーではなく,インド人社会の指導者たちや,ナタールインド人会議,トランスヴァール英印協会といった公的機関の長だが,文章を書いたのはガンジーである。その事実は,1895年9月25日付の彼の文章(本巻258頁)- 「いくつかの覚書については,私がそれを書いたので,文責は全面的に私にある。」- によって明らかだ。このガンジーの言を裏付ける証拠がある。それは,1894年7月リプトン卿に提出された請願書で,彼以外の者が署名しているが,自叙伝(第2部第17章)の中で彼は次のように書いている。「この請願書を書き上げるのには大変苦労した。関係する文献にはすべて目を通した。」

ガンジーは,1894年から数年ナタールに住んでいた。その期間に出た南アフリカ共和国(後のトランスヴァール)からの請願書も何通か本巻に収められている。それらの請願書が彼の手によると判断した理由は,南アフリカに到着して1年間(1893年から94年にかけて),彼はトランスヴァールの首都プレトリアで過ごし,その地のインド人たちと親しくなり,彼らの抱えている問題に通じるようになっていたからだ。自叙伝の第2部第7章で,彼は次のように書いている。-「今やプレトリアでは,私が顔見知りでなかったり,生活ぶりを知らなかったりするインド人は一人としていなかった。」 彼はその地でインド人を組織して団体を作り,「インド人移民の困難な状況を,代表して当局に訴えることができるようにし,できる限りの時間をそこにつぎ込んで奉仕した。」- その後ガンジーナタールで仕事をするようになったが,トランスヴァールのインド人が請願書の起草を彼に依頼したということは,きわめてあり得ることだ。ナタールにいようと,トランスヴァールにいようと,どこにいても彼は,南アフリカ全土のインド人の問題に深い関心を寄せていた。そして,一度も住んだことがない,たとえばオレンジ自由州やケープ植民地ばかりではなく,ローデシアのインド人が直面している問題についても,絶え間なく筆を振るった。

しかし,インド人の請願書のすべてがガンジーの手によるものでないことは,ここに記しておかねばならない。彼が南アフリカにやって来る以前に提出されたものがあるからだが,それらは明らかに,ヨーロッパ人の弁護士たちが仕事として引き受けて書いたものだ。そうだとしても,ガンジーがやってきてインド人の問題に深く関わるようになってからというものは,インド人たちは請願書の起草をガンジーに任せるのが通例だった。1904年ころから,ガンジー南アフリカを離れるまでずっと一緒に活動をしていたチャガナル・ガンジー博士とポラク博士は,二人とも同じように受け止めている。

ガンジーの署名のない文書が2通,ガンジーによるものとして本巻に掲載されている。ナタールインド人会議の綱領と第一報告書である。ガンジーは同会議の創設者で,かつ初代の書記だった上に,彼の自筆による綱領草稿が発見されているからだ。

資料から判断すると,ガンジーは1894年6月に最初の請願書を書いた。その後は倦むことなく,次から次へと矢継ぎ早に請願書を書き続けた。彼の公的生活のこの段階では,彼は事実を公表し,議論を通じて理性と良心に訴えるという方法で,不正を正そうとしていた。南アフリカでこの方法を12年間実践した上で,それでも既得権者が譲歩を拒否したときに,サッチャグラハや,ある種の直接行動に踏み出した。

本巻がカバーしている時期には,ガンジーがまだ20歳台の青年だったことを,読者は銘記しておいてほしい。彼の書いた文章も,話した言葉も,彼が一生涯持ち続けた顕著な自制心,穏やかさ,真実に忠実であろうとする厳しさ,そして対立する相手方に対しても正義を行おうとする強い志向性を見せている。

 

南アフリカのインド人移民問題の歴史的背景

 

ガンジー南アフリカに渡った1893年当時,その地にはナタール,ケープ,トランスヴァール,オレンジ自由州という4つの植民地があった。ヨーロッパ人は,伝説の地インドに向かう途中で全く偶然この地を発見した。その子孫たちがそこを植民地化し,当初は東洋への中継地に,後には自分たちの故郷にした。

1893年にこの地にいた白人は,オランダ人(ボーア人)とイギリス人だった。当時,オランダ人はトランスヴァールとオレンジ自由州に,イギリス人はナタールとケープに住んでいた。そのうち,まずやってきたのはオランダ人だった。彼らは,ほぼ200年間この地を独占支配してきたのだが,後から乗り込んできたイギリス人が,1806年にケープを,1843年にナタールを彼らから奪い取ってしまった。大部分のオランダ人は内陸部へ逃れ,トランスヴァールとオレンジ自由州の主人となった。とはいうものの,オランダ人の支配地域にもイギリス人は住んでいるし,イギリス人支配地域にもオランダ人が残っている。

この地域の主導権を巡って両者の間には紛争が絶えなかった。しかし,1899年から1902年のボーア戦争で決着がつき,南アフリカ全体がイギリス連邦に属することになった。イギリスの言い分によると,それはオランダ人支配地域におけるイギリス人とインド人の法的権利を確保するための戦争であった。

ガンジー南アフリカに到着した頃には,4つの植民地は互いに独立しており,それぞれの政府を持ち,統治を行っていた。ロンドンのイギリス政府は,その国民の利益を擁護する目的で4つの植民地に代表部を設置し,植民地政府の政策をある程度までコントロールしていた。しかし,その後1910年になると,4つの植民地が一つにまとまり,イギリス帝国内に留まりつつ南アフリカ連邦政府を樹立し,完全な自治権を獲得した。この時以降,帝国政府は,南アフリカは今や自治領としてイギリス連邦の一員であるから,自ら望むように政策を決定することができるとし,4つの植民地に対しても南アフリカ政府に対しても不干渉の政策をとるようになった。こうして,アジア系住民の不平不満に対処することは,南アフリカ連邦総督の仕事となり,イギリス政府がこの問題に口をはさむ権限はなくなった。しかし,ガンジー南アフリカに滞在していた大部分の期間においては,まだそうではなかった。

南アフリカの農業生産を上げるためにも,鉱物資源を手に入れるためにも,白人たちは労働力を必要とした。白人たちにとって,アフリカ人は土地から収穫できるもので満足し,賃金のために働くことに熱心ではなかったから,いつも当てにできる頼れる労働力ではなかった。そのため,南アフリカの植民地政府は,インドを支配していたイギリス人との間で,年季契約移民同意書や契約書の形でインド人労働者を南アフリカに輸出する取決をした。そのような形で最初のインド人労働者が南アフリカに到着したのは,1860年のことだった。同意書や契約書の期間が切れると,インド人労働者は帰国するか,南アフリカに残ってさらに5年間働くように契約を更新するか,あるいは自由市民として南アフリカ政府が与える帰国経費分相当の土地に定着することができた。

インド人労働者は一般的には最も貧しい階層の出身で,衛生的な習慣が身についておらず,その他の点においても遅れていた。時をおかずして,インド人商人たちが同胞の需要を満たすために後を追ってやってきた。これが南アフリカにインド人が住み始めた起源である。

1869年になってインド政府は,南アフリカにおけるインド人労働者と滞在期間を延長する契約更新をする条件として,インド人労働者は奉公期間満了後他の市民と同じ地位を保障され,同じ法律を適用され,法的にも行政的にも差別されてはならないとする法律を定めた。ナタール政府は,インド人労働者の契約更新を望んでいたのでこの法律を受け入れ,ロンドンのイギリス政府も1875年に同法を承認した。他方イギリス女王は,1858年,インド地域の原住民にもイギリスの他の住民と同じ権利が保障される,と宣言している。

ところがオランダ人は,インド人が南アフリカに居残ることにずっと反対だった。彼らは,中国人を含むアジア人労働者は契約書に書かれた期間だけ滞在を許され,それが過ぎたら直ちに追い返されることを望んだ。彼らは,自分たちの植民地は,決められた土地にだけ住むことを許されたアフリカ人は別として,純粋に白人国家であることを望んだのだ。

南アフリカのイギリス人住民も商人も同じ思いだった。彼らは,インド人が南アフリカの農業や交易で自分たちの競争相手に育っていくことが許せなかったのだ。インド人の農業者は,新種の果物や野菜を栽培するようになり,しかもその価格は安く,大量に出回るようになった。そのために白人の農業者の利益は減少した。インド人商人は質素な生活をし,設備や雇人にかける費用を切り詰めたので,イギリス人やオランダ人の商人よりもずっと安い値段で商売ができた。

そこで,インド人を対象とするおびただしい数の規制が導入された。その先駆けとなったのは,1885年にオランダ人の治めるトランスヴァールで制定された法律第3である。同法は,アジア人はオランダの市民権を取得できないと規定した。そして,衛生上の目的から,インド人は特別に設けられた居住区に住まねばならず,その居住区外で不動産を所有することは禁止され,公益目的で入国した者は料金を払って登録し,免許を取得しなければならないと定めた。

しかしながらこの法律第3は,1884年の女王陛下とトランスヴァールオランダ共和国との間で締結されたロンドン条約の第14条に違反することは明らかだった。同条は,トランスヴァール共和国では,原住民を除くすべての者が入国,移転,居住,財産保有の完全な自由を保障され,共和国内のいかなる地域においても事業を営む自由を有し,かつオランダ人市民が課されている以外の税を課されることはないと宣言していた。トランスヴァールのイギリス高等弁務官は,イギリス人住民の利益を擁護するために駐在していたのだが,域内の白人が,オランダ人もイギリス人もこぞって,アジア人進出は脅威だと大騒ぎをした圧力に負け,本国政府に対し,同法に反対しないように進言した。ロンドンのイギリス政府はこれを受けて,この反インド人法に反対しないことを表明した。

南アフリカのインド人はイギリス人と同等の権利を有するとの先の言明にも関わらず,帝国政府がとったこの政策の転換は,オランダ人のトランスヴァールのみならずイギリス人のナタールにおいても,インド人を差別する一連の法規の洪水をもたらした。それは,帝国政府がトランスヴァールでもナタールでも,その国民を保護する十分な権限を有しているときに起きたのだ。

南アフリカ中の列車,バス,学校,ホテルで,インド人に対する人種差別が頻発した。インド人は,ひとつの植民地から他の植民地へ許可なくして移動することを禁止された。インド人が最大人口を占めていたイギリスの植民地のナタールでは,1894年に,インド人から公民権を剥奪し,その地位を貶め,政治的権利を行使させないことを意図する法案が今まさに通過しようとしていた。

折しもガンジーは,1893年5月,弁護士として仕事をするために南アフリカにやって来ていた。仕事を終えて帰国しようとしていた1894年,彼は新聞で同法案のことを知った。それが通ると何が起きるかについて,彼はインド人住民たちと話をした。彼らの大部分は教育を受けていないものだったが,ガンジーの指摘を聞いて,残って助けてほしいと彼に頼んだ。この法案及び南アフリカのインド人が苦しんでいたその他の差別を矯正するための仕事が1914年までの21年間,ガンジーをその地に引き留めた。

 

読者のためのメモ

 

本巻は,多くのメモと請願書を収録している。メモは,他の者が署名していても,ガンジーが執筆したことに疑いがない。ガンジーが執筆したと判定した理由については,本巻の序文でもある程度触れられているが,加えて,第3巻に収録した文書が,1894年から1901年までに「植民地関係の役所に提出した公式文書のほとんど」をガンジーが書いた」と明言している。

資料は,原文どおりに収録されている。ただ,明らかなタイプミスは訂正し,単語の略記は元に戻してある。人の氏名がいくとおりかにつづられているときは,原典のつづりに統一した。単語のつづりについては原文のままにした。

グジュラティ語からの翻訳に際しては,原文に忠実であることとともに英語としての読みやすさに留意した。

脚注と文中のカギ括弧内の注記は,すべて編集者による。これに対し,文中の丸かっこ内の注記は,もともと原文にあったものである。原文で,ガンジーが他の文献や,時には自分自身の書いたもの,声明,報告書を引用している箇所は,段落とポイントを落としておいた。ガンジーの演説や会見の内容を報告した文章や,彼の言葉だと断定できない発言についても,活字を落としておいた。

本巻の他の箇所に収録されている資料を脚注で参照するときには,その資料の題名と日付を示した。資料に日付がついている場合や,作成日が推測できるものは,資料の最初の頁の右上に記載した。推測した作成日はカギ括弧でくくり,必要に応じ推測の理由を付した。資料末尾に原典の名称とともに日付が付されている場合は,その原典の発行日を示している。

ガンジーの自叙伝「真理と共なるわが実験」に言及するときは,出版された時期によって頁付けが異なるので,章と節を指摘するにとどめた。

資料の出所を示すSNは,アーメダバードのサバルマティ・アシュラム保有の資料であることを意味する。ニューデリーガンジー・スマラク・サングラハラヤに写しが保管されている。

南アフリカの政体,編年史,歴史的背景,ナタールとそれ以外の南アフリカの2枚の地図は,1893年から1914年までのガンジーの活躍を理解する助けとして用意したものである。

本巻が扱っている期間に関する資料出所一覧と年表は,本巻末尾に掲載した。

本巻の改訂版は,本全集第3巻以降のサイズに合わせるように,ごらんのサイズに改められたものである。

 

謝    辞

 

本巻に収録した資料については,まず,ニューデリーガンジー・スマラク・ニディ及びサングラハラヤに感謝申し上げる。その図書館や博物館を自由に利用し,所蔵している書籍,ガンジーの手紙その他未公開の文書の写しを利用することを許可していただいた。アハメダバードのサバルマティ・アシュラム保存記念財団にもお世話になった。同財団からは,南アフリカ新聞の切り抜きや,ブルーブック,折に触れガンジー南アフリカで書いた手紙,その他の文書等の貴重な資料を提供していただいた。

ロンドンの植民省,大英博物館,ロンドン菜食主義者協会にも感謝している。我々の研究員が彼らの図書館や記録保管室で調査研究するのに種々便宜を図っていただいた。

様々な調査や資料集めについては,次の諸団体にお世話になった ― カルカッタ国立図書館カルカッタボンベイマドラスの各新聞協会事務所,アーメダバードのグジュラート・ヴィジャピス・グランタラヤ,ニューデリーのAICC図書館(国際問題に関するインド協議会図書館),デリーのデリー大学(アフリカ研究学部)図書館,デリーとボンベイのUSIS図書館,ボンベイ大学図書館及びアジア協会図書館。

ピュレラル・ナヤール博士には,本巻に収録している「ロンドンへの誘い」の解題をしていただいた。単行本であるガンジー自叙伝「真理と共なるわが実験」,ダダバイ・ナオロジ,インドの偉大な老人,初期とシュリマッド・ラジャンドラの各出版社,及び新聞や機関誌であるカティワールタイムズ,ナタールアドバタイザー,ナタールマーキュリー,ナタールウィットニス,タイムズオブナタールベジタリアンベジタリアンメッセンジャーの各発行人にも謝辞を述べたい。