ラスキン

    「この最後の者にも」

                その真髄

 

                M.K.ガンジー

 

前回の序章に続いて、第一論文の翻訳を掲載します。

 

 

          第一論文

               真理の根幹

 

人類は様々な時代に様々な幻想にとらわれてきました。そのうち,おそらく最も強力で,かつまちがいなく最も信用ならないものは,人の有意な行動原理は社会的情愛のもたらすものとは無関係に決定される,とする近代の経済学です。

もちろん,経済学も他の幻想同様,一見もっともらしい根拠を持っています。経済学者は,「人の本性の中で,社会的情愛は偶発的で撹乱的な要素であるのに対し,進歩への渇望は恒常的なものである。そこで,偶発的な要素は除外して,人は富を作り出す機械であると単純に考え,労働,仕入,販売について,どんな法則に従えば最大の富が蓄積できるかを検討しようではないか。いったん法則さえ決定されれば,その後各人がどれだけの不確定な情愛的要素を加味しようが自由である。」と言うのです。

この説は,後で加味される偶発的な要素が,最初に検討される要素と同じ性格のものであれば,論理的に正しい分析方法でしょう。たとえば人の体の動きです。人は,恒常的な力と偶発的な力で動いていますが,どちらも同じ性質の力です。この場合は,まず恒常的条件の下で体の動きを検討し,その後に偶発的条件を加味して修正するという方法で,体が次にどう動くかを予想するのが一番簡単な方法でしょう。しかし,社会的問題における撹乱的要素は,その恒常的要素とは性格が本質的に異なっています。いったんそれを加味すれば,対象の性格そのものが変化してしまいます。撹乱的要素の影響は算術的ではなく,化学的なものですから,条件が変わってしまい,それまでの知識が役に立たなくなるのです。

よって立っている諸前提が正しいのであれば,私も経済学の結論を受け入れることができます。しかし,今の経済学は,人には骨格がないと前提している体育学のようなもので,私には何の興味もありません。そのような前提に立てば,学生を丸めてボールにすることも,ケーキのように平らにすることも,引き延ばして筋状にすることも自由自在でしょう。そうした後に,無理やり骨格を入れ込んであれこれ考え直そうというのです。理屈は立派で,結論も正しいかもしれません。ただ,現実に適用することはできません。そのような体育学に,私は関心がありません。経済学もまったく同じで,人は肉体でのみで生きており魂はない,という前提で法則を作り上げます。人という,魂が優越的な要素である存在に,そのような法則が適用できるはずがありません。

経済学は科学の名に値しません。労働者がストライキに打って出た場面では,経済学は何の役にも立たないのです。使用者側は自分たちの見解に固執し,労働者側は別の見解を主張します。経済学では,この双方の対立を真に解消することができないのです。何人もの論客が,使用者側の利益は労働者側の利益と対立するものではないと証明しようとしましたが,成功した試しがありません。実際のところ,お互いの利益が対立すれば人は必ず対立する,というものではないはずです。家の中に一切れしかパンがなく,母親も子供たちも共に飢えている状況では,双方の利益は同じではありません。母親がそのパンを食べれば,子供たちは食べるものがありません。子供たちが食べれば,母親は空腹のまま仕事に出かけなければなりません。それでも,双方の利益が対立するから母親と子供たちがその一切れのパンを巡って争い,一番強い母親がそれを食べてしまうだろう,とは言えないのです。同じように,利益が異なるからといって,互いに相手を敵視し,優位に立つには暴力や策略を使うしかない,ということにもならないのです。

道徳の力が人の行動原理になる程度は,鼠や豚における以上のものではないと仮定したとしても,使用者と労働者の利益はほぼ同じであるとか,いや対立しているものだとか決めつけるわけにはいきません。状況により,どちらでもあり得るからです。仕事がきちんと達成され,妥当な賃金が支払われることは双方にとってまちがいなく有益なことです。しかし,もうけの分配の場面では,一方の得が他方の損になることも,そうはならないこともあり得るのです。使用者が賃金を少ししか払わないために,労働者が病弱で士気の上がらない状態に置かれることも,労働者があまりに高い賃金を取るために,使用者が事業を安全かつ闊達に維持できないようになってしまうことも,どれもみな有益なことではありません。会社が貧しくて機械の動輪をきちんと整備できないようなときには,操縦士は高い賃金を要求すべきではないのです。

したがって,利益の均衡という視点から人の行動原理を導こうとするあらゆる企ては失敗します。失敗して当然なのです。神は,人間を利益の均衡ではなく,正義の均衡に導かれて行動するように創造したからです。利益の均衡を図ろうとする試みがいつも失敗に終わるのは,神の意志によるのです。行動している最中に,自分や周囲の者にとって最終的な利益がどうなるかを予知できる人は誰もいません。けれども,今,何が正義にかなった行動であり,何が不正義な行動であるかなら,誰でも分かるでしょう。たいていの人はその区別ができるものです。私たちは誰も,何が最も得であるか,それがどうしたら手に入れられるかを指摘できなくても,正義に則って行動した結果は結局のところ,自他ともに可能な限りの一番良い結果であることは知っているのです。

私は,正義という言葉を愛情-人が他者に抱く慈しみの感情-も含んだ意味で使用しています。使用者と労働者の関係がうまくいくかどうかも,この意味の正義によって決まってきます。

分かりやすい例として,家庭における使用人の労働条件の場合を取り上げてみましょう。

主人が,自分の支払う賃金で,使用人を徹底的に働かせることしか考えていないとします。片時もゆっくりすることを許さず,最小限の食べ物しか与えず,病気になってしまいそうなところに住まわせるのです。そうしていても,世間でいう「正義」には反してはいないでしょう。主人がどこまで厳しくできるかは,近隣の雇い主たちの扱いとの比較で決まってくるものの,使用人とはその時間と労働の全部を提供してもらうことで合意している,自分にはそれを使い切る権利がある。もし,使用人がもっと良い主人を見つけられるのなら,そちらに移るのは自由だ,というわけです。

経済学者たちは,上記のように主張します。そのような仕組みによって,使用人に最大限の労働を提供させることができ,それは社会に最大限の利益をもたらし,ひいて社会を通じて使用人自身にも利益がもたらされると断言します。

しかし,それは真実ではありません。使用人が,蒸気や磁力,あるいは他の計算可能な動力で動くエンジンならば,そういうこともあるでしょう。けれども,正反対に,使用人は魂という動力で動くエンジンです。魂の力は,経済学者が知らないうちにあらゆる方程式の中に入り込み,想定した結果をすべて変えてしまいます。この不思議なエンジンは,報酬や強制の力では最大限の能力を発揮することはありません。このエンジンの動力に最も適合する燃料,すなわち愛情の力によって魂の出力が最高点にまで引き出された時に,はじめて最大限の能力を発揮するのです。

確かに,主人が分別と活力を備えた人物であれば,使用人に無理やりたくさんの大事な仕事をやらせることができるでしょう。同じように,主人が怠惰で活力もなければ,使用人はできの悪い仕事を少ししかしないということもよくあります。けれども,主人と使用人双方の分別と活力を一定と仮定すれば,その場合,最大の成果は,双方が互いに反目することによってではなく,互いに愛情をもって接することによって達成されるのです。これこそ,普遍的な真理です。

使用人がしばしば主人の寛大さにつけ込んだり,好意を裏切ったりすることがあるからといって,この真理はほんの少しも揺らぐことがありません。なぜなら,寛大にされたことを何とも思わない使用人は,もし厳しく扱われれば恨みを抱くようになるでしょうし,寛大な主人にさえ不誠実な使用人は,非道な主人に対しては害を働くことになるからです。

(第一論文の後半に続く)