ガンジー全集

第一巻

 

(1884年~1896年6月)

 

第一巻への序言

 

ガンジーの生涯の最も早い時期をとり扱うこの第一巻が,編集者にとって一番の難関だった。ガンジーは後の,より活動的な人生に備えて外国にあったから,オリジナルの資料を手に入れるには,彼が学生時代を過ごしたイギリスや,主に弁護士として過ごした南アフリカで,収集作業をしなければならなかった。

われわれにとって幸運だったのは,この時期の資料をガンジー自身がインドに持ち帰っていたことだ。それらの資料は,カーボン紙で控えを残した通信,手紙の手書き原稿やメモ,タイプや印刷の請願書やパンフレット,投稿・請願・声明文を掲載している南アフリカの新聞の切り抜き,数冊の南アフリカに関するブルーブックである。ただ,ガンジーは自分の書いたものを全部残していたわけではない。ヒンドゥイズムの基本原理について彼が書き溜めた文書について,「南アフリカにおけるサッチャグラハ」(1950年,本書242頁)の中で彼はこう書いている - 「その類のものはこれまでに捨ててしまったり,焼いたりした。そのことを悔やんではいない。何でもみんな持っていようとすれば,身動きが取れないし,お金がかかる。書棚や箱に囲まれての暮らしは,質素な生活の誓いを立てた者にはそぐわないことだったろう。」

研究調査助手たちは,ロンドンや南アフリカで,できる限りの公私の記録を収集してきた。それらの記録が,ガンジー自身が南アフリカから持ち帰っていた資料を補完してくれた。

南アフリカの資料には,ガンジーがインド人社会のために書いた請願書や覚書が含まれている。それらに署名しているのはガンジーではなく,インド人社会の指導者たちや,ナタールインド人会議,トランスヴァール英印協会といった公的機関の長だが,文章を書いたのはガンジーである。その事実は,1895年9月25日付の彼の文章(本巻258頁)- 「いくつかの覚書については,私がそれを書いたので,文責は全面的に私にある。」- によって明らかだ。このガンジーの言を裏付ける証拠がある。それは,1894年7月リプトン卿に提出された請願書で,彼以外の者が署名しているが,自叙伝(第2部第17章)の中で彼は次のように書いている。「この請願書を書き上げるのには大変苦労した。関係する文献にはすべて目を通した。」

ガンジーは,1894年から数年ナタールに住んでいた。その期間に出た南アフリカ共和国(後のトランスヴァール)からの請願書も何通か本巻に収められている。それらの請願書が彼の手によると判断した理由は,南アフリカに到着して1年間(1893年から94年にかけて),彼はトランスヴァールの首都プレトリアで過ごし,その地のインド人たちと親しくなり,彼らの抱えている問題に通じるようになっていたからだ。自叙伝の第2部第7章で,彼は次のように書いている。-「今やプレトリアでは,私が顔見知りでなかったり,生活ぶりを知らなかったりするインド人は一人としていなかった。」 彼はその地でインド人を組織して団体を作り,「インド人移民の困難な状況を,代表して当局に訴えることができるようにし,できる限りの時間をそこにつぎ込んで奉仕した。」- その後ガンジーナタールで仕事をするようになったが,トランスヴァールのインド人が請願書の起草を彼に依頼したということは,きわめてあり得ることだ。ナタールにいようと,トランスヴァールにいようと,どこにいても彼は,南アフリカ全土のインド人の問題に深い関心を寄せていた。そして,一度も住んだことがない,たとえばオレンジ自由州やケープ植民地ばかりではなく,ローデシアのインド人が直面している問題についても,絶え間なく筆を振るった。

しかし,インド人の請願書のすべてがガンジーの手によるものでないことは,ここに記しておかねばならない。彼が南アフリカにやって来る以前に提出されたものがあるからだが,それらは明らかに,ヨーロッパ人の弁護士たちが仕事として引き受けて書いたものだ。そうだとしても,ガンジーがやってきてインド人の問題に深く関わるようになってからというものは,インド人たちは請願書の起草をガンジーに任せるのが通例だった。1904年ころから,ガンジー南アフリカを離れるまでずっと一緒に活動をしていたチャガナル・ガンジー博士とポラク博士は,二人とも同じように受け止めている。

ガンジーの署名のない文書が2通,ガンジーによるものとして本巻に掲載されている。ナタールインド人会議の綱領と第一報告書である。ガンジーは同会議の創設者で,かつ初代の書記だった上に,彼の自筆による綱領草稿が発見されているからだ。

資料から判断すると,ガンジーは1894年6月に最初の請願書を書いた。その後は倦むことなく,次から次へと矢継ぎ早に請願書を書き続けた。彼の公的生活のこの段階では,彼は事実を公表し,議論を通じて理性と良心に訴えるという方法で,不正を正そうとしていた。南アフリカでこの方法を12年間実践した上で,それでも既得権者が譲歩を拒否したときに,サッチャグラハや,ある種の直接行動に踏み出した。

本巻がカバーしている時期には,ガンジーがまだ20歳台の青年だったことを,読者は銘記しておいてほしい。彼の書いた文章も,話した言葉も,彼が一生涯持ち続けた顕著な自制心,穏やかさ,真実に忠実であろうとする厳しさ,そして対立する相手方に対しても正義を行おうとする強い志向性を見せている。

 

南アフリカのインド人移民問題の歴史的背景

 

ガンジー南アフリカに渡った1893年当時,その地にはナタール,ケープ,トランスヴァール,オレンジ自由州という4つの植民地があった。ヨーロッパ人は,伝説の地インドに向かう途中で全く偶然この地を発見した。その子孫たちがそこを植民地化し,当初は東洋への中継地に,後には自分たちの故郷にした。

1893年にこの地にいた白人は,オランダ人(ボーア人)とイギリス人だった。当時,オランダ人はトランスヴァールとオレンジ自由州に,イギリス人はナタールとケープに住んでいた。そのうち,まずやってきたのはオランダ人だった。彼らは,ほぼ200年間この地を独占支配してきたのだが,後から乗り込んできたイギリス人が,1806年にケープを,1843年にナタールを彼らから奪い取ってしまった。大部分のオランダ人は内陸部へ逃れ,トランスヴァールとオレンジ自由州の主人となった。とはいうものの,オランダ人の支配地域にもイギリス人は住んでいるし,イギリス人支配地域にもオランダ人が残っている。

この地域の主導権を巡って両者の間には紛争が絶えなかった。しかし,1899年から1902年のボーア戦争で決着がつき,南アフリカ全体がイギリス連邦に属することになった。イギリスの言い分によると,それはオランダ人支配地域におけるイギリス人とインド人の法的権利を確保するための戦争であった。

ガンジー南アフリカに到着した頃には,4つの植民地は互いに独立しており,それぞれの政府を持ち,統治を行っていた。ロンドンのイギリス政府は,その国民の利益を擁護する目的で4つの植民地に代表部を設置し,植民地政府の政策をある程度までコントロールしていた。しかし,その後1910年になると,4つの植民地が一つにまとまり,イギリス帝国内に留まりつつ南アフリカ連邦政府を樹立し,完全な自治権を獲得した。この時以降,帝国政府は,南アフリカは今や自治領としてイギリス連邦の一員であるから,自ら望むように政策を決定することができるとし,4つの植民地に対しても南アフリカ政府に対しても不干渉の政策をとるようになった。こうして,アジア系住民の不平不満に対処することは,南アフリカ連邦総督の仕事となり,イギリス政府がこの問題に口をはさむ権限はなくなった。しかし,ガンジー南アフリカに滞在していた大部分の期間においては,まだそうではなかった。

南アフリカの農業生産を上げるためにも,鉱物資源を手に入れるためにも,白人たちは労働力を必要とした。白人たちにとって,アフリカ人は土地から収穫できるもので満足し,賃金のために働くことに熱心ではなかったから,いつも当てにできる頼れる労働力ではなかった。そのため,南アフリカの植民地政府は,インドを支配していたイギリス人との間で,年季契約移民同意書や契約書の形でインド人労働者を南アフリカに輸出する取決をした。そのような形で最初のインド人労働者が南アフリカに到着したのは,1860年のことだった。同意書や契約書の期間が切れると,インド人労働者は帰国するか,南アフリカに残ってさらに5年間働くように契約を更新するか,あるいは自由市民として南アフリカ政府が与える帰国経費分相当の土地に定着することができた。

インド人労働者は一般的には最も貧しい階層の出身で,衛生的な習慣が身についておらず,その他の点においても遅れていた。時をおかずして,インド人商人たちが同胞の需要を満たすために後を追ってやってきた。これが南アフリカにインド人が住み始めた起源である。

1869年になってインド政府は,南アフリカにおけるインド人労働者と滞在期間を延長する契約更新をする条件として,インド人労働者は奉公期間満了後他の市民と同じ地位を保障され,同じ法律を適用され,法的にも行政的にも差別されてはならないとする法律を定めた。ナタール政府は,インド人労働者の契約更新を望んでいたのでこの法律を受け入れ,ロンドンのイギリス政府も1875年に同法を承認した。他方イギリス女王は,1858年,インド地域の原住民にもイギリスの他の住民と同じ権利が保障される,と宣言している。

ところがオランダ人は,インド人が南アフリカに居残ることにずっと反対だった。彼らは,中国人を含むアジア人労働者は契約書に書かれた期間だけ滞在を許され,それが過ぎたら直ちに追い返されることを望んだ。彼らは,自分たちの植民地は,決められた土地にだけ住むことを許されたアフリカ人は別として,純粋に白人国家であることを望んだのだ。

南アフリカのイギリス人住民も商人も同じ思いだった。彼らは,インド人が南アフリカの農業や交易で自分たちの競争相手に育っていくことが許せなかったのだ。インド人の農業者は,新種の果物や野菜を栽培するようになり,しかもその価格は安く,大量に出回るようになった。そのために白人の農業者の利益は減少した。インド人商人は質素な生活をし,設備や雇人にかける費用を切り詰めたので,イギリス人やオランダ人の商人よりもずっと安い値段で商売ができた。

そこで,インド人を対象とするおびただしい数の規制が導入された。その先駆けとなったのは,1885年にオランダ人の治めるトランスヴァールで制定された法律第3である。同法は,アジア人はオランダの市民権を取得できないと規定した。そして,衛生上の目的から,インド人は特別に設けられた居住区に住まねばならず,その居住区外で不動産を所有することは禁止され,公益目的で入国した者は料金を払って登録し,免許を取得しなければならないと定めた。

しかしながらこの法律第3は,1884年の女王陛下とトランスヴァールオランダ共和国との間で締結されたロンドン条約の第14条に違反することは明らかだった。同条は,トランスヴァール共和国では,原住民を除くすべての者が入国,移転,居住,財産保有の完全な自由を保障され,共和国内のいかなる地域においても事業を営む自由を有し,かつオランダ人市民が課されている以外の税を課されることはないと宣言していた。トランスヴァールのイギリス高等弁務官は,イギリス人住民の利益を擁護するために駐在していたのだが,域内の白人が,オランダ人もイギリス人もこぞって,アジア人進出は脅威だと大騒ぎをした圧力に負け,本国政府に対し,同法に反対しないように進言した。ロンドンのイギリス政府はこれを受けて,この反インド人法に反対しないことを表明した。

南アフリカのインド人はイギリス人と同等の権利を有するとの先の言明にも関わらず,帝国政府がとったこの政策の転換は,オランダ人のトランスヴァールのみならずイギリス人のナタールにおいても,インド人を差別する一連の法規の洪水をもたらした。それは,帝国政府がトランスヴァールでもナタールでも,その国民を保護する十分な権限を有しているときに起きたのだ。

南アフリカ中の列車,バス,学校,ホテルで,インド人に対する人種差別が頻発した。インド人は,ひとつの植民地から他の植民地へ許可なくして移動することを禁止された。インド人が最大人口を占めていたイギリスの植民地のナタールでは,1894年に,インド人から公民権を剥奪し,その地位を貶め,政治的権利を行使させないことを意図する法案が今まさに通過しようとしていた。

折しもガンジーは,1893年5月,弁護士として仕事をするために南アフリカにやって来ていた。仕事を終えて帰国しようとしていた1894年,彼は新聞で同法案のことを知った。それが通ると何が起きるかについて,彼はインド人住民たちと話をした。彼らの大部分は教育を受けていないものだったが,ガンジーの指摘を聞いて,残って助けてほしいと彼に頼んだ。この法案及び南アフリカのインド人が苦しんでいたその他の差別を矯正するための仕事が1914年までの21年間,ガンジーをその地に引き留めた。

 

読者のためのメモ

 

本巻は,多くのメモと請願書を収録している。メモは,他の者が署名していても,ガンジーが執筆したことに疑いがない。ガンジーが執筆したと判定した理由については,本巻の序文でもある程度触れられているが,加えて,第3巻に収録した文書が,1894年から1901年までに「植民地関係の役所に提出した公式文書のほとんど」をガンジーが書いた」と明言している。

資料は,原文どおりに収録されている。ただ,明らかなタイプミスは訂正し,単語の略記は元に戻してある。人の氏名がいくとおりかにつづられているときは,原典のつづりに統一した。単語のつづりについては原文のままにした。

グジュラティ語からの翻訳に際しては,原文に忠実であることとともに英語としての読みやすさに留意した。

脚注と文中のカギ括弧内の注記は,すべて編集者による。これに対し,文中の丸かっこ内の注記は,もともと原文にあったものである。原文で,ガンジーが他の文献や,時には自分自身の書いたもの,声明,報告書を引用している箇所は,段落とポイントを落としておいた。ガンジーの演説や会見の内容を報告した文章や,彼の言葉だと断定できない発言についても,活字を落としておいた。

本巻の他の箇所に収録されている資料を脚注で参照するときには,その資料の題名と日付を示した。資料に日付がついている場合や,作成日が推測できるものは,資料の最初の頁の右上に記載した。推測した作成日はカギ括弧でくくり,必要に応じ推測の理由を付した。資料末尾に原典の名称とともに日付が付されている場合は,その原典の発行日を示している。

ガンジーの自叙伝「真理と共なるわが実験」に言及するときは,出版された時期によって頁付けが異なるので,章と節を指摘するにとどめた。

資料の出所を示すSNは,アーメダバードのサバルマティ・アシュラム保有の資料であることを意味する。ニューデリーガンジー・スマラク・サングラハラヤに写しが保管されている。

南アフリカの政体,編年史,歴史的背景,ナタールとそれ以外の南アフリカの2枚の地図は,1893年から1914年までのガンジーの活躍を理解する助けとして用意したものである。

本巻が扱っている期間に関する資料出所一覧と年表は,本巻末尾に掲載した。

本巻の改訂版は,本全集第3巻以降のサイズに合わせるように,ごらんのサイズに改められたものである。

 

謝    辞

 

本巻に収録した資料については,まず,ニューデリーガンジー・スマラク・ニディ及びサングラハラヤに感謝申し上げる。その図書館や博物館を自由に利用し,所蔵している書籍,ガンジーの手紙その他未公開の文書の写しを利用することを許可していただいた。アハメダバードのサバルマティ・アシュラム保存記念財団にもお世話になった。同財団からは,南アフリカ新聞の切り抜きや,ブルーブック,折に触れガンジー南アフリカで書いた手紙,その他の文書等の貴重な資料を提供していただいた。

ロンドンの植民省,大英博物館,ロンドン菜食主義者協会にも感謝している。我々の研究員が彼らの図書館や記録保管室で調査研究するのに種々便宜を図っていただいた。

様々な調査や資料集めについては,次の諸団体にお世話になった ― カルカッタ国立図書館カルカッタボンベイマドラスの各新聞協会事務所,アーメダバードのグジュラート・ヴィジャピス・グランタラヤ,ニューデリーのAICC図書館(国際問題に関するインド協議会図書館),デリーのデリー大学(アフリカ研究学部)図書館,デリーとボンベイのUSIS図書館,ボンベイ大学図書館及びアジア協会図書館。

ピュレラル・ナヤール博士には,本巻に収録している「ロンドンへの誘い」の解題をしていただいた。単行本であるガンジー自叙伝「真理と共なるわが実験」,ダダバイ・ナオロジ,インドの偉大な老人,初期とシュリマッド・ラジャンドラの各出版社,及び新聞や機関誌であるカティワールタイムズ,ナタールアドバタイザー,ナタールマーキュリー,ナタールウィットニス,タイムズオブナタールベジタリアンベジタリアンメッセンジャーの各発行人にも謝辞を述べたい。