第一論文「真理の根幹」の後半

 

どんな場合でも,どんな人に対しても,自分のことを真っ先にする考えを捨てて接すれば,最大の報酬が得られるものです。私はここで,愛情をそれ自体好ましいものだとか,崇高なものだとか言っているのではありません。どんな経済学者の損得計算も無効にしてしまう不思議な力だと見ているのです。経済学のいう動機や条件の一切を無視したときにはじめて,愛情が動力として働き始めるのです。感謝の念を利用するつもりで使用人に親切を施す者は,感謝もされなければ経済的な利益を得ることもないでしょう。反対に,何の経済的利益も期待しないで使用人に親切を施す者は,すべての経済的利益を手にすることでしょう。まさに,命を守ろうとする者はそれを失い,命を捨てる者はそれを得るのです。

主人と使用人の関係を理解するのに分かりやすいもう一つの例は,部隊長と部下の兵士たちとの間に存在する関係です。

部隊長が,部下たちを最大限効率よく動かす一番手軽な方法として,規律を厳しく徹底したとします。そのような自分中心のやり方では,部下たちの力を最大限に引き出すことはできないでしょう。反対に,部隊長が,部下たちとできるだけ直接的で個人的な付き合いをし,彼らの利益に配慮して,彼らの生命を尊重するならば,部下たちは部隊長を愛し信頼して,その結果,他の方法では決して得られない力を発揮するでしょう。このことは,部隊の兵士たちの人数が多ければ多いほど,より厳密に当てはまります。確かに,部下たちは部隊長を嫌っていても,命令されたことはやり遂げるかもしれません。しかし,ことが戦闘ということになると,部下たちが部隊長を愛していない限り,勝てることはまれなのです。

古代の高地部族のように盗賊目的で結束している集団であれば,完全な愛情で結ばれていて,メンバーの誰もが頭目のためには命を投げ出す用意があるでしょう。けれども,合法的な製造を目的として集められた労働者の集団では,そのような感情は共有されておらず,集団の長のために進んで命を投げ出す者などいないでしょう。なぜなら,使用人も兵士も,ある決められた期間,決められた賃金で雇われているのに対し,労働者の賃金は労働力需要によって変動し,事業がうまくいかなければいつでも解雇される危険があります。そのような条件下では,愛情に基づく行為がなされる余地はなく,不満が爆発するだけでしょう。ここで,二つのことをよく検討しなければなりません。

1.賃金水準が労働力需要に左右されないようにするためには,どこまで規制してよいか。

2.旧家で長年働いている使用人や,精鋭部隊の兵士たちが持っている高い士気に匹敵する恒久的な愛着を,労働者が従事している仕事に持ち続けられるよう,(市場の状況がどうであっても)一定の賃金を支給し,雇用を確保することはどこまで可能か。

1.大変奇妙なことに,経済学者たちはこれまで,労働力需要の変動に左右されないように賃金水準を規制することは不可能だと言ってきました。これはまちがっています。

我々は誰も,自分たちの首相をダッチ・オークション(セリ下げ)にかけたりはしません。病気になったときには,1ギニーも取らないような医者にはかからないでしょう。訴訟をするときには,6シリング8ペンスの料金を4シリング6ペンスに値切ったりしません。急な夕立にあったときには,馭者に1マイル6ペンス以下の料金で乗せてくれなどと,無理は言わないのです。

一番いい労働者はこれまでも,そして今でも,決まった水準の報酬を支払われてきましたし,そうすべきなのです。

「何だって!腕のいい職人にも,悪い職人にも,同じだけ払えと言うのか?」と読者は尋ねるかもしれません。

そのとおりです。たとえば,説教師は魂を癒す職人です。医者は体を治す職人です。いい説教師にも悪い説教師にも,いい医者にも悪い医者にも,あなたは甘んじて同じ報酬を払うでしょう。それ以上の道理で,あなたの家を直してくれるのなら,腕のいい職人にも悪い職人にも,同じだけの報酬を払うべきなのです。

「でも,私は自分の見識で腕のいい医者を選びますよ。」とあなたは言うかもしれません。ぜひ,そうしてください。レンガを積んでもらうのに腕のいい職人を選ぶのは至極当然のことです。そして,「選ばれる」ことは腕のいい職人にふさわしい報酬です。労働を正当に評価するには,決まった水準の報酬を支払うべきですが,腕のよい職人は仕事を得,腕の悪い職人は仕事に就けないということは起こります。まちがったやり方は,標準の半分の報酬で雇えるからといって腕の悪い職人を使い,腕のいい職人の職を奪ったり,互いに競争させて腕のいい職人の報酬を不当に引き下げたりすることです。

2.私たちが目指すべき第一の目標が賃金の平等だとすると,第二の目標は,労働者が作り出す製品に対する需要が偶然の要素によって変動しても,同じ人数の労働者を雇用し続けることです。

仕事が中断しがちな場合には,仕事が確保されていて継続的な場合に比べ,労働者の生活を可能にする賃金は必然的に高くつきます。後の場合には,労働者は,低くても一定額の賃金を受け取るでしょう。労働者の雇用を一定に保つように規制することは,長い目で見れば,労働者にも使用者にも良いものです。この場合,使用者は莫大な利益を上げることも,大きな危険を冒すことも,賭けにふけることもできなくなります。

兵士たちは,部隊長のために命を投げ出す覚悟でいるからこそ,普通の労働者よりもずっと尊敬されています。兵士の務めは実のところ,人を殺すことにではなく,人を守るために自分の命を投げ出すことにあります。世間の人々が兵士を尊敬するのは,国を守るために彼らが命を懸けているからなのです。

私たちが法律家,医師,聖職者を尊敬するのも,彼らが自己犠牲の精神で働いてくれるからです。法律家は,ひとたび裁判官席に座ると,どんな結果になろうとも,ひたすら正義にかなった判決を目指します。医師は,どんな困難な状況の下でも,患者のために腕を奮います。聖職者も同じように,信徒たちを正しい道に導くことに努めます。

これらのいわゆる教養ある職業の有能な人々はすべて,会社の社長よりも人々にずっと尊敬されています。それは,商人というものは,自分の利益第一に行動すると考えられているからです。商人たちの仕事は,社会にとってとても必要なものです。しかし,商売の動機は完全に利己的なものだと世間では思われています。商人は,取引ではいつも顧客の取り分をできるだけ少なくし,自分の取り分をできるだけ多くするのを第一の目的にしているに違いない,人々はそう信じています。そうすることが商人の行動原則だと,法規まで定めて強制しています。人々は,値切ることが買い手の仕事で,騙すことが売り手の仕事だ,それが宇宙の法だとして,自らそれに従っているのに,商人がその法のとおりに行動していると非難し,一段下の階層の人間だとレッテルを貼っているのです。

こんなことは終わりにしなければいけません。自分の利益だけを考えるのではない商売のあり方を見つけなければなりません。そのような商売は過去に存在したことはありません。しかし,それ以外の商売というものはあり得ないのです。これまで商売と言われてきたものは,実は化かし合いでしかなかったことに気付かなければなりません。真実の商売にあっては,真実の説教や真実の戦闘と同じように,時には進んで何かを失うことを受け入れなければなりません ― 兵士が義務感をもって命をささげるように,商人も義務感をもって6ペンスを失うべきときがあるのです。商売においても,信仰や戦争におけると同様に,殉教や英雄的行為ということがあってしかるべきです。

文明国には五つの偉大な知的職業があります。

兵士の仕事は,国を守ることです。

司祭の仕事は,国を導くことです。

医師の仕事は,国民の健康を保つことです。

法律家の仕事は,国に正義を行き渡らせることです。

商人の仕事は,国中に生活物資を供給することです。

そして,これらの職業に就いている者のすべきことは,いざという時にはその仕事のために命を投げ出すことです。いつ死ぬべきかを知らない者は,いかに生きるべきかを知らないのです。

国中に生活物資を供給することが商人の職分だということに,注目してください。司祭の職分が俸給をもらうことではないのと同様,商人の職分は利益を得ることではないのです。まともな司祭にとって,俸給は必要な付属物ではありますが,人生の目的ではありません。また,まともな医師にとって,治療費(あるいは報酬)が人生の目的ではありません。同様に,まともな商人にとって,代金は人生の目的ではありません。三者とも,もしまともな職業人であるなら,万難を排して,たとえ代金がまったく得られなくても,果たさなければならない職分があるのです。司祭の職分は導くことであり,医師の職分は治療することであり,商人の職分は供給することです。つまり,商人はその第一の職分として,自分が扱っている物資を最高の品質で入手し,最も必要としている地域に,できる限り安価に供給することに全精力を注ぐべきなのです。

ところで,どんな物資の生産にも多くの人々が関わっていますから,商人は,その仕事の過程で,軍隊の指揮官や司祭以上に,直接的にそれらの人々の指揮者となり統率者となります。そのため,自分が関わる人々の生活に相当程度大きな責任を負っていることになります。物資を良質かつ安価に生産することだけではなく,生産に携わっているすべての人々の生活が維持できるようにすべきであり,それが,商人の第二の職分なのです。

これら二つの職分を果たすには,最高の知恵を発揮し,忍耐と,思いやりと,才能をもってあたることが必要です。商人はそのことに全精力を注がなければなりません。そして,兵士や医師がそうするように,必要なら,人々に求められる場面で,命を投げ出す覚悟を持つべきです。

ここで商人として遵守すべき大切なことが二つあります。第一は雇用を守ることであり,第二は供給する製品の完全性を守ることです。これらを遵守することで,わが身にどんな困難や貧乏や苦労が降りかかってきても,働き手を解雇したり,あるいは自分の製品の品質を落としたり,混ぜ物をしたり,不当な値段をつけたりすることなく,毅然として立ち向かわなければなりません。

自分が雇用している人々の主人として,商人は父親のような権威と責任を与えられています。若者はたいてい家庭から完全に引き離されて商売の世界に入ってきます。若者には頼りにできる父親はもう身近にはいないのですから,商人が若者の父親にならなければなりません。そういう立場の若者を正しく遇するただ一つの方法は,自分自身の息子が同じ立場にいた場合にするような扱いをしているかどうか,厳格に自問自答することです。

駆逐艦の艦長が自分の息子を一水兵として乗船させなければならない事態になったときのことを考えてみてください。艦長は常に,その息子を遇するように他の部下全てを遇さなければなりません。工場の支配人が自分の息子を一工員として働かせなければならない事態になったときも,同じです。支配人は常に,その息子を遇するように他の工員全てを遇さなければなりません。これこそが,経済学における,唯一の効果的で,まっとうで,かつ実際的な法則なのです。

船長は,船が難破したときには最後まで船にとどまるべきとされ,食料が尽きたときにはパンの最後の一切れを船員たちと分かち合うべきだとされています。まさにそれと同様に,製造者は,どんなに景気が悪いときでも,その苦しさを労働者たちと共にし,それどころか労働者たちよりもっと多くの苦しみを引き受けるべきなのです。飢饉のときに,あるいは難破した船や戦場で,父親が自分の命を捨てても息子を守ろうとするのと同じように振舞うべきなのです。

以上の話は,実に奇妙に聞こえるかもしれません。しかし,本当に奇妙なのは,それが奇妙に聞こえてしまうということなのです。これまで述べたことは永遠の真実であり,実際的な観点からも真実です。これ以外の考え方では,国民生活を進化させていくことはできません。現在私たちが国家として享受している生活全般がどのようなものであるかは,少数の強靭な精神を持った人々と,事実を見つめる人々が,大衆に教え込まれた経済学の諸原則を否定していることで明らかです。経済学の諸原則を受け入れてしまえば,国家は崩壊してしまいます。どのような形で崩壊するのかについては,以下の頁でさらに詳しく論じます。

 

第二論文「富の本質」に続く