序文

                                  序   文

 

インド政府は,この国に自由をもたらした功労者に報いる,ただそれだけのためにマハトマ・ガンジー全集の刊行に着手したのではない。マハトマの著作,発言,手紙のすべてはそれ自体,後世のために収集・記録されるべきだとの信念をもって,着手したものである。

この全集は,ガンジーが日々,そして年々,語りかつ書いたものを網羅することを目的としている。彼の活躍は半世紀以上におよび,その影響はこの国ばかりではなく多くの国々に及んでいる。偉大な人物が,普通の人の日常生活で直面する様々な問題に注意を向けることはまれである。生前の彼と交わり,彼がインドの大地を自分の足で歩き,自分の信じるところを日常生活でも実践しようと常に苦闘していたことを知る人々は,彼の姿を直接のお手本として学ぶことができない世代に対し,彼の豊かな教えの数々を正確に,かつ,できるだけ総合的に伝承する義務がある。

収集されたガンジーの著作物,発言,手紙は,1884年から1948年までのものであり,公的活動に打ち込んでいた60年間をカバーしている。資料は世界中から収集されたが,その多くはとくにインド,イギリス,南アフリカの三国からであった。

彼の書いたものと語ったことは,生前にも,彼の数冊の著書や発行物の中から,そして埃をかぶった古いファイルや,政府の記録や,ブルーブックや,英語・グジュラート語・ヒンディー語の新聞や雑誌から収集されていた。彼は,貴賤,貧富,人種,宗教を問わず世界中の人々とおびただしい数の手紙を交わしていた。それらが傷んだり,失われたりする前に収集しておかねばならない。

ガンジーの著書や発言を集めたものが既にいくつか存在するのは,事実である。とりわけ,彼自身が信託組織として設立したアーメダバードのナバジバン印刷が,それを手掛けている。それらの出版物が有益であることは疑いがないが,その多くがガンジーのインド時代のものに限定されている。かつ,すでに彼自身の機関紙であったナバジバンやヤングインディア,あるいはハリジャングループの週刊誌に発表されたものばかりである。そのうえ,それらの出版物はたいていがテーマごとに編集されていて,そのために彼の著作や発言の中から関係ある部分だけが拾い出され,他の部分は紹介されていない。

手紙に関しては,すでにガンジー・スマラク・ニディができる限りのものを収集して,写真に保存しているが,まだ出版にまでこぎつけていない。ニディが収集した手紙の数はこれまでに数千通に及ぶ。しかし,まだまだ多くの手紙が収集されておらず,出版が待たれる。

以上述べたように,時代を網羅し,資料の存在場所を問わず,ガンジーの著作,発言,手紙のすべてを収集し,編年体でそれらのすべてを出版するという試みは,これまで存在しなかった。そのような大事業は,とうてい個人や私的な団体がなしうるものではない。それ故に,インド政府がこれを担うこととなった。

著作,発言,手紙の形でガンジーが遺したものは,すでに初期の南アフリカ時代から膨大に存在する。その時期の収集資料だけでも12巻に達する。そこから見積もると,全集全体としては,まちがいなく70巻を超えることが予想される。

加えて,彼の発言はいくつかの言語にまたがっている。彼は三つの言葉で書き,語った。グジュラート語,ヒンディー語,英語である。そのため編集者の作業は,資料の収集にとどまらず,全集が出版される英語とヒンディー語に,その他の言語から正確に翻訳することが加わった。さらに,彼の活動の初期をなす南アフリカ時代の資料は,インド国外のロンドン植民省資料館や南アフリカにあるという事実が,問題を複雑にした。南アフリカでの資料収集はとりわけ困難であった。ガンジーは植民省の役人たちに宛てて手紙を書くと,機関誌のインディアンオピニオンにもほぼ同じ内容の文章を掲載した。ところが,インディアンオピニオンに掲載された文章は,彼が後にヤングインディア,ナバジバン,ハリジャンに書いた論文とは異なる署名であった。ガンジー自身の書いたものかどうかを判定するために,編集者はインディアンオピニオン誌ばかりでなく,南アフリカ時代のガンジーの活動に深くかかわっていたH.S.L.ポラック博士とチャガンラル・ガンジー博士に大いに協力していただいた。

このような事業の性質上,漏れがあるとか不完全だという批判は容赦願いたい。今は得られない資料が,後の研究によって発見されることもあるだろう。完璧を期してそれまで待つのは賢明とは思われない。全集をより完全なものにする仕事は将来に託されている。われわれは,現時点で入手可能な資料をすべて収集し,ガンジーによるものとの確認をした上で,読者を助ける簡単な註を加えて出版することに最大限の努力をした。出版後に収集された資料については,別途出版することが構想されている。

本全集の資料の並べ方は,すでに触れたように,日付の特定できるものは論文,演説,手紙を問わず,すべて日付順にまとめてある。資料を分野ごとにまとめて別々に出版することをせず,あえて編年体で並べた主な理由は,分野ごとの分類は人為的だからである。ガンジーはしばしば数日のうちに,同じテーマについて論文を書いたり,演説をしたり,手紙を書いたりした。彼にとっては,生きるということは総合化された全体であって,細分化された不連続なものではない。論文,演説,手紙 - どのような表現方法をとっても,彼の考えが異なることはほとんどなかった。そういった資料が完全な編年体で隣同士に並べられることによって,彼が生起する問題をどのように考え,行動し,それとどのように取り組んだかを,より完全な形で理解することができる。一方で重要な公共的課題に取り組みながら,同時に一人一人の個人的な問題にも気を配ることを忘れなかった彼の心の豊かさが,全集をとおして明らかになるだろう。個人的な手紙がそれだけまとめて出版されるよりも,公共的課題を取り扱っている資料の間に並んでいることによって,彼の人格の全体像がより忠実に再現されると思われる。

全集出版の目的は,ガンジー自身の言葉をできるだけ忠実に再現することにあるから,彼の演説や,インタビューや,会話に関する典拠のはっきりしない報告は除かれている。彼の発言を間接話法で記している報告も同様である。しかしながら,演説に関する限り,典拠が確かである場合や,直接話法で記している報告に含まれていない場合,あるいは全集に含んでおかなければ知ることができない情報を与えてくれるものである場合には,間接話法の報告も取り上げられている。ガンジーが弁護士として書いた純粋に職業上の文書や,毎日の決まりきったメモ,どう考えても伝記的な関連性がない文書も除かれている。

全集刊行の事業は1956年2月にスタートした。当時インド政府情報及び放送省事務官であったP.M.ラッド博士が発起したものであるが,彼は事業の基礎を築くことに尽力した後,1957年3月,思いがけずこの世を去った。

全集編纂の事業と方針は諮問委員会の手にゆだねられた。委員会発足当初のメンバーは,モラルジ R.デサイ博士(委員長),カカサヘブ・カレルカル,デヴァダス・ガンジー博士,ピャレラル・ナヤール博士,マガンバイ P.デサイ博士,G.ラマチャドラン博士,シュリマン・ナライン博士,ジバンジ D.デサイ博士,P.M.ラッド博士であった。

デヴァダス・ガンジー博士とP.M.ラッド博士は1957年に亡くなったので,R.R. ディワカール博士が1958年に委員会に加わった。1966年には,ジバンジ D.デサイ博士に代わってタコレバイ・デサイ博士がメンバーとなった。1967年になって諮問委員会が改組され,メンバーは次のとおりとなった:モラルジ R.デサイ博士(委員長),カカサヘブ・カレルカル,R.R. ディワカール博士,ピャレラル・ナヤール博士,マガンバイ P.デサイ博士,ラムダイ・シンハ(ディンカール)博士,シャンティラル H.シャー博士(出版部部長兼編集長)。

収集された資料を整理することや各巻の編集の仕事は,諮問委員会が指名したバラタン・クマラッパ博士に任された。1957年にクマラッパ博士が死去したため,諮問委員会は新たにジャイラムダス・ドウラトラム博士を編集長に任命した。1959年10月に彼が退いたので,K.スオミナタン教授が1960年2月に編集長に就任した。

編集長には二人の編集長代理がついている。英語を担当するU.R.ラオ博士と,ヒンディー語を担当するバワニ・プラサド博士である。その他の編集者と翻訳者は,K.N.バスワニ博士,ゴビンド・ビヤス博士,C.N.パテル博士,A.L.テワリ博士,G.D.ガーダ博士,P.R.カイキニ博士,A.A.シロマニ博士,ラクシュミ・トリパティSmt.という陣容であった。

編集委員たちには編集助手,研究調査助手,編集助手のチームがついている。

次に名前を挙げる人たちは,編集者や翻訳者として,さまざまな時期に貢献してくれた。R.K.プラブ博士(1956~58年 演説編集者),M.K.デサイ博士(1956~60年 グジュラート語編集者),S.C.デキスト博士(1956~64年 ヒンディー語編集者),P.G.デシュパンデ博士(1956~66年 手紙編集者),ラティラル・メータ博士(1957~58年 グジュラート語編集者),マド・プラサド博士(1959~64年  演説編集者),シュリナート・シン博士(1959~63年 ヒンディー語翻訳者),C.L.ナラシムハン博士(1960~65年 真贋判定者),ラム・シン博士(1960~67年 ヒンディー語翻訳者),N.K.デサイ博士(1962~67年 グジュラート語翻訳者)。

 

【翻訳者の書込み】

次回からはいよいよ,全集の第一巻の翻訳掲載を始める。

 

まえがき

まえがき

 

あと1か月もすると,ガンジーがこの世を去って10年になる。彼は十分に年を取ってはいたが,まだまだ生命力に溢れ,活動能力も並はずれていた。その彼の命を突然暗殺者が奪ってしまった。インドは打ちひしがれ,世界中が悲しんだ。彼と親しいきずなで結ばれていた我々にとって,その衝撃と悲しみは耐え難いものだった。だが,彼の突然の死は,その生き様同様,生涯かけて取り組んだ大義を明らかにしたという意味において,あのように崇高に生きた人物にふさわしい幕切れだったかもしれない。年を取り心身が少しずつ弱っていくガンジーを見たかったという人は,誰もいないだろう。彼は,50年間を通じて,人々の希望と自己実現の輝く星として,かつまた自ら設計し育んだ国家の父として生き,そして亡くなった。

数えきれないほどの彼の活動のいくつかをとおして,われわれは彼と交わる幸運に浴した。われわれの中では,ガンジーはいつまでも若々しいエネルギーの体現者であり続けるだろう。われわれは,彼を一人の老人というより,新生インドの誕生を代表する,春の活力に満ちた者として記憶にとどめている。彼を個人的に知る機会のなかった新しい世代の者は,彼の名前と業績について多くの話を伝え聞くことを通じて,彼を身近に感じている。彼は生きている間も偉大であったが,その姿を見ることができなくなってから,より一層偉大である。

インド政府が,ガンジーの書いたものと,語ったことをすべて収集して世に出すのは,喜ばしいことである。彼が書いたものと語ったことを,記録に基づき,完全にかつ正確に再現することが求められている。彼の活動は広範囲に及び,書き物は膨大であるから,その記録を求めること自体気の遠くなるような作業であり,完遂までには多くの年月を要するだろう。しかし,これはわれわれ自身にとってだけではなく,将来の世代に対する義務でもある。

このような収集作業では,一般にいう重要なものと重要でないものや,くだけたものが混在することは避けられない。人が何を考えていたかをさぐろうとするときに,考え抜かれた文章や言葉より,くだけた言葉のほうが役に立つこともある。いずれにせよ,われわれのうちの誰が,それらを峻別して選び出す立場にあるだろうか? それは彼自身にやってもらおう。彼にとって生きるということは,さまざまな色の糸でち密に織られた布のように,不可分の全体であった。子どもにかけた言葉も,苦しむ者を癒すためにそっと触れた手も,大英帝国に挑戦する決議文と同じくらい重要なのである。

われわれの後の世代が,この愛すべき指導者について少しでも理解できるように,この事業を最大の畏敬の念を持って進めようではないか。彼は,掲げた灯りでわれわれの世代に進むべき道を示し,この国に自由をもたらしたばかりか,人を人たらしめている崇高な資質について深い洞察を与えてくれた。将来,人々は,彼のような人物がこのインドの土を踏みしめて歩き,インドの人々のみならず全人類に愛と奉仕をささげた事実に驚嘆するだろう。

私はこれを,壮大なキンチンジュンガに見守られながら,ダージリンで書いている。今朝はエベレストも垣間見えた。エベレストとキンチンジュンガの静かな力強さと永遠性は,彼の人のものでもあったと思えてならない。

ダージリンにて              ジャワハルラル・ネルー

1957年12月27日

 

 

ガンジー全集

 第一巻

 

(1884年~1896年6月)

 

 

インド政府

情報及び放送省

出版局

 

 

            第一版第一刷:1958年1月26日(インド国定暦1879年11月)

            第一版第二刷:1958年8月(インド国定暦1880年5月)

            第二版:1969年1月(インド国定暦1890年11月)

            第三版:1979年2月(インド国定暦1900年11月)

            再版:1985年5月(インド国定暦1907年2月)

 

 

© アーメダバード・ナバジバン財団,1969年

 

 

定価:20ルピー

 

 

著作権者アーメダバード・ナバジバン財団の好意による

 

 

発行:ニューデリー110001インド政府出版局長

印刷:ニューデリー110055スカイラーク出版

 

 

オマージュ

 

マハト・マガンジーは多くの言葉を残したが,人生哲学や信仰・思想の体系を発展させるためではなかった。そんな好みも,時間もなかった。ただ,真実とアヒンサの力を固く信じ,直面したさまざまな問題を解決するにあたって,それを具体的に適用し,実践した。そのこと自体が彼の教えであり,哲学であったといえよう。

政治,社会,宗教,農業,労働,工業,その他あらゆる分野の問題で,ガンジーが取り組まなかったものを見つけることは難しい。基本であり,根本であると信じていた真実とアヒンサの原則を用いて,彼はこれらの問題と取り組んだ。何を食べ,どういう服装をし,どんな職業に就くかといった個人的な生活の微細なことから始まって,大きな社会問題に至るまで,今日のインドの生活のあらゆる分野で,彼が自分流のやり方で影響を与えなかったもの,形作らなかったものはほとんどないと言ってよい。それは,何世紀にもわたって変えてはならないもの,神聖なものとされてきたカースト制度や不可触賤民といった問題にまで及んでいる。

ガンジーのものの見方は目をみはるばかりに新鮮で,伝統や根強い習慣に囚われてはいなかった。同じことは,彼の大小の問題への取り組みについてもいえる。その手法は,物の見方に劣らず斬新で,一見しただけでは結果が読めなかったが,最後には成功を収めた。教条主義とは無縁であることは,彼の本性そのものであった。新しい実験をしては,そこで得た体験からいつも何かを学ぶ広い心を持っていた。同じ理由から,うわべだけの首尾一貫ということにはこだわらなかった。事実,彼に反対する者はもちろん,ときには同調する者でさえ,いくつかのガンジーの行動には前後矛盾するところがあることを見て取った。彼は自分の信じるところに忠実で,かつ道義的勇気に富んでいた。いったん自分の過去の行動がまちがっていたと確信すると,それを正すことを躊躇しなかったばかりでなく,自分の誤りを公に認めることも厭わなかった。そして,しばしば,自分の決定や行動を客観的で公平な批判にさらした。ガンジーの行動の多くが,彼の崇拝者を当惑させたり,批判者を混乱させたりしたのも,それほど驚くことではない。

彼のような人物を本当に理解しようとするには,その説いたこと,したことのできるだけ多くをつぶさに検討することが必要である。彼の一生を荒っぽくスケッチしたり,部分的に取り出して研究したりしても,この偉大な人物の実像を正しく読者に伝えることはできない。そのことがまさに,彼が書き残したものをかくも壮大なスケールで収集することになった理由である。この全集は50巻を超えるだろうと聞いている。マハトマ・ガンジーが後世に遺したものは,それほどに大きいのである。

インド政府情報出版局は,この全集の出版に踏み切ることによって,マハトマ・ガンジーの教え,信念,哲学の研究に不可欠な基礎を提供することになる。ガンジー自身がしようとはしなかったことを,研究者と思想家たちがなさねばならない。利用可能となった資料を使って,ガンジーの人生哲学,教え,理想と計画,そして人生で生起する様々な問題についての彼の考えを,筋の通った哲学的なやり方で,かつ上手に分類した,たとえば論文の形にまとめ,分かりやすく提示することが可能となるだろう。性格上,ガンジーは,事柄の大小を問わず,あるいはまた世界的重要性のある問題か個人的な限られた問題かを問わず,どんなことにも心を開いていた。人生のほとんどの時間,大きな政治的課題と格闘していたにもかかわらず,彼の書き残したもののきわめて大きな部分が,社会的,宗教的,教育的,経済的,言語的問題に関するものである。

ガンジーは非常に筆まめな人物であった。きちんとした返事を求める手紙で,彼が返信しなかったものは滅多になかった。私的な問題について助言を求める個人からの手紙も相当数あったが,これらに対するガンジーの回答は,同じ問題を抱える人々にとって役に立つものだ。生きていた期間の大部分,彼は速記者やタイピストを使うことなく必要なものは自分で手書きしていた。後に速記者やタイピストが欠かせなくなってからも,全部任せてしまうのではなく,自分で書いたものも多かった。時には身体的な理由から右手指では書けない時期もあったが,そのうちに左手で書くことを身に付けた。(このことは糸紡ぎでも同じだった。)そんなやり方で,ガンジーは私的な手紙のやりとりにかなりの時間を費やした。そのおかげで,ごく普通の人が日常生活の中でぶつかる問題について彼が何を助言したかを通じて,その教えの重要で奥深い部分を知ることができる。

生命を総合的にとらえ,一生を人類への奉仕に捧げた人間がかつていたとすれば,それこそガンジーである。彼のものの見方,考え方は信仰と気高い奉仕の精神によって支えられていたが,その行動と実際の教えとは,いつも道徳的であると同時にきわめて実践的であった。60年近くに及んだ公的指導者としての経歴を通じて,手近な成果を挙げるような考え方を,彼は決して取らなかった。換言すれば,彼は,良き目的を達成するためになら,悪しき手段も辞さないという考えとは無縁であった。どのような手段を選ぶかということについてきわめて厳格であったがために,用いられる手段の性格がまず吟味され,目的の達成はその後であった。悪しき手段によっては良き目的は達成できない,悪しき手段は達成される目的をゆがめてしまうというのが,彼の不動の信念であった。

マハトマ・ガンジーの書き遺したものと発言とを収集したこの全集の価値は,疑いもなく大きい。全集には,素晴らしく人間的でとてつもなく活動的だった偉人が,60年にわたって遺したメッセージ ― 前例のない運動を生み出し,育て,成功に導いたメッセージ,数えきれないほど多くの人々を勇気づけ,導いたメッセージ,新しい生活様式を編み出し,実現したメッセージ,時空を超えて人類すべてが共有する精神的,究極的な価値の持つ文化的価値を高めたメッセージ ― が記録されている。それらを後世に残そうとのこの試みは,まことに適切である。

ガンジーの,他者に対する揺るぎのない信頼と,人間の精神の中には道徳性が組み込まれているとの信念は人の魂を揺さぶる。彼の方法論の根底には,その信念がある。自由とは,彼の定義によれば,単に法令を制定することや,科学的技術的進歩によって獲得できるものではない。真に自由な社会を実現するには,まず社会をそれにふさわしいように組織しなくてはならず,その仕事は社会の構成員一人一人が始めなければならない。インドの国民生活がガンジーの理想に忠実で,それによって形作られていく限りにおいて,それはインスピレーションの源であり続けるだろう。そしてまた,独立したインドが彼の理想を実現しながら統合の度合いを高めていくならば,文化の地平を拡大し,新しい国造りに成功するだろう。

しかしながら,ガンジーの理想の多くは,今日でも十分に受け入れられているとは言い難い。ある社会秩序の自由度は,その構成員一人ひとりがどれだけ現実に自由を行使し得ているかによって評価されるべきだという彼の指摘は,人々に受け容れられている。しかしその一方で,中央集権化された組織というものは,それが工業的なものであれ,社会的なものであれ,政治的なものであれ,相応に個人の自由の制限をともなうものだという事実は,まだ十分には認識されていない。この中庸が見つけられ,採用されるまでにはまだ時間がかかるだろう。ガンジーの経済学はしばしば,欠乏生活とまでは言わなくても,禁欲生活の教えのように受け止められる。彼の説く規律も,色彩や美とは無縁の厳格なだけの道徳性と混同される。生きていくうえで,彼はほんの少しのものしか必要としなかった。それでいて何の不足もない豊かな生活を送った。信仰というものがすたれてしまった社会にあっては信じられないほどに崇高なその信念を,自らの生活において実践してみせた。ガンジーのアシュラムで,住人たちが毎日,朝夕欠かさなかった非暴力,真理,他人の物を盗まない,ブラーマチャリヤ(純潔),不所有,労働,食欲の制御,何事も恐れないこと,すべての宗教を尊重し寛容であること,不可触浅眠制度の廃止,義務の履行における自主性を誓う祈りと儀式は,このような文脈で理解すべきである。

この全集を手に取ることによって,ガンジーの命の流れに一歩でも足を踏み入れたものは誰も,決して失望することはなく,隠された宝を,自分の能力と信念に応じて,いくらでも発掘することができるだろうことを確約して,このオマージュを閉じることとする。

 

ラシュトラパティ バヴァン

  ニューデリー

 1958年1月16日

 

 

めざせガンジー全集完訳

よく耳にするブログなるものを始めてみようと,今日,初めて登録した。

「私のライフワーク」と宣言したものの遅々として進まない「ガンジー全集」(全100巻)の翻訳を軌道に乗せるため,自力で翻訳できた分だけその都度公開し,自分にプレッシャーをかけるためである。

英文で出版された「ガンジー全集」そのものは,すでに35年前にニューデリーまで行って,インド政府出版局から直接購入済みで,今も書架に鎮座している。その後10年程して,便利なことに,そのCD版が出されただけではなく,今では全集のPDF版が無料でインターネットを通して読めるようにまでなっている。

私の翻訳も,今やもっぱらPDF版に頼っている。27インチのディスプレーに英文を拡大して読めるので大変助かる。目の疲れが軽減されるし,肩がこらない。

さあ,では次回からは翻訳の成果を少しずつだが掲載していこう。

2018.9.25